キーボードに向かっている。昨年の6月以来のブログ更新だが、
色々と世知辛いご時世で理不尽と思うことも多いが、
毎日頑張っている。
昨年の6月にアイアンマンジャパンが終わってから、年末迄、柔道ばかりやっていた。
職場も変わり、前の職場の同僚とここ数年出ていた河口湖マラソンにも出なかったし、
東京マラソンは落選した。青梅マラソンは気付いた時には締め切っており、
宮古島を意識し始めた年末は通常のレース前の体重と比較して、5キロ近くも重かった。
要するにトライアスリートとしては、かなり出遅れている、ということだ。
危機意識があった。苦肉の策として、2月の頭と3月の頭にハーフマラソンを入れた。
大会に参加するのが、コンディションを最も早く整える早道だと、経験の中からぼくは学んでいた。
2月1日に参加した守谷ハーフマラソンの時点では、毎日の様に走り込みを行ったにも関わらず、
体重は余り減らず、未だ3キロはベストより重かった。タイムも1時間30分以上掛ったが、
3月8日に参加した小田原尊徳マラソンでは、守谷のタイムを6分以上縮め、20分台で戻ってきた。
例年の状態に、体は近づいていた。これからは、マラソンレースと走り込みの疲れを取りながら、
バイクとスイム中心の練習に切り替える。
シーズン初戦である宮古島は、夏のレースと比較するとバイクの練習が十分出来ない。
しかし、それは毎年のことだ。唯、去年と比較するとバイクトレーニングの開始が1・2週間遅い。
一回・一回の練習を無駄にしないようにして、大会迄、一回でも多くバイクに乗るようにしなければ・・。
柔道の乱取中に右の中指靭帯断裂の大怪我をしたのが、3月12日のこと。
怪我をした時には、「パキーン」と竹が割れるような音がした。
中指はぼくの右手に力なくぶら下がっている状態で、当初は手を挙げることも出来なかった。
翌日、病院嫌いのぼくがこの時は、珍しく接骨院に行った。
中指の間接が、外れているのだろうと思った。
素人考えで接骨院に行って、間接をはめてもらえば、直ぐに良くなるだろうと考えていた。
宮古島迄、一月強の時間しかなく、怪我に患っている時間はないと思った。
「靭帯が断裂している」と言われた時もピンと来なかったが、最低でも完治するには「一月は掛かる」と言われた。
ぼくは、週末の14日・15日はバイクの練習をするつもりだったのだが、
その週末は、右手のどの指を動かしても、激痛があり中指は触れるだけで悲鳴が出た。
右手は開くことも、閉じることも出来ない。
自転車に乗ってもギアチェンジも出来なければ、ブレーキを握ることも出来ない。
無論、水泳も出来なかった。唯一出来るのは、走ることだった。
仕方なく、その週末は走った。居ても立ってもおられず、焦りから駒沢公園を30キロ以上も走った。
先週のハーフマラソンの疲れは抜けきっておらず、完全にオーバートレーニングになった。
その週は仕事中に気を緩めると、睡魔が襲ってくる始末で仕事にも影響が出てきていた。
翌週の22日に今シーズン初めてバイクに乗った。
右手の人差し指と親指・薬指は動くようになり、ブレーキを握ることが出来るようになったからだ。
未だ、ロードバイクの固いシフトレバーを操作することは出来ないから、ギアチェンジは出来なかった。
ギアチェンジが出来ないので、急坂を上ることは出来ない。それに、人が出てきても、咄嗟にブレーキを握るのも厳しい。
そこで、深夜の駒沢公園のサイクリングロードを走ることにした。
30周して、60キロ以上走った。地面の舗装が少しでも粗いと、中指に激痛が走る。
それでも、バイクに乗ることが出来て少し安心していた。
次にバイクに乗ったのは、28日の土曜日である。
右手は又少し良くなっていて、中指を使わずにシフトチェンジ出来るようになっていた。
バイク→ランという昨年のアイアンマンジャパンで好感触を攫んだ練習を29日の日曜日に行うことにし、
その日は深夜にバイクを組んで、一時間(30キロ弱)程、深夜の一般道を走った。
翌日は計画通り、バイク→ランを行った。
ぼくは、職場が変わり休みが土日になった。
残念ながら、桜の頃・・。今まで、メインの練習場だった多摩川は花見客で溢れ、とても練習にはならない。
環状7号線を走り、荒川サイクリングロードを目指した。桜ケ丘の自宅から荒川迄、遠くて20キロ以上ある。
荒川に着くと荒川サイクリングロードを走り環八迄、下る。
環八経由で戻ってくると、60キロ超だった。
バイクを部屋の前に止めると、直ぐにランシューズに変え、馬事公苑の周りを走った。
約10キロを1時間かけて走った。
それで、へとへとになった。もう3月の末だというのに、この仕上がりではと焦った。
翌週は会社の創立記念日が4月6日の月曜日だったので、多摩川を走りたいと思った。
実践的な練習としては、ここが山になる。
平日の人が比較的少ない多摩川サイクリングロードを90キロ走り、
部屋に戻った後、馬事公苑の周りを先週よりも多く12キロ走った。
ランは距離は延びても時間は、先週と変わらず体がトライアスロンを思い出していることを実感した。
但し急拵えの代償はあり、この週も疲れを仕事に引きずってしまった。
この週末には、バイクを宮古島に送らなければならない。
レース迄、2週間を切った。ぼくは、スイムの練習を本格的再開した。
怪我をしてから、長距離遊泳は出来ないが、水に全く入らなかった訳ではなかった。
水圧をもろに喰らうので、中指は痛いし、水は上手く掴めず苦労をしたが、
50メートルずつ、1時間位泳いだりはしていた。
この週からは、一キロ以上連続で泳ぐ長距離遊泳を中心に練習することにした。
指に痛みは、勿論でるが、中指の回復は順調で靭帯はしっかりしてきていた。
金曜日にバイクの練習不足を危惧して、深夜に50キロ余り、一般道を走った。
環八を羽田方面、目黒通り迄走り、目黒通りに入ると目黒方面環七迄走る。
環七に入ると練馬方面、目白通りを越え千川通り迄、走った。
千川通りを走り環八に戻ると、千歳船橋迄戻り、そのこから城山通りを祖師谷大蔵、成城迄走ると
世田谷通りに出た。大蔵病院に至る急坂を時速30キロをキープして登りきった。
脇道に入り、大蔵プールの前を通り、砧公園に至る。環八を横断して、馬事公苑を一周して部屋に戻った。
翌日は、オミノさんにバイクのレース前チェックを頼む為に吉祥寺迄、少し遠回りして走った。
通常は11キロだが、大回りしたので、17キロ程走っていた。
帰りは、部屋迄走る。昨日の疲れか先週の疲れか分からないが、体が随分重かった。
翌日は吉祥寺迄走り、バイクを引き取るとバイクに乗って部屋に戻り、梱包すると早々に宅急便で送った。
この日が12日・・。レースの一週間前のことだった。
最後の一周は、スイムとランを中心に練習したいと思っていた。
体は疲れが酷く、仕事に影響を出さない様にするのに、本当に苦労した。
平日のトレーニングは、ぼくはスポーツクラブで全て済ましている。
月曜日は、本当にぼろぼろで、スイムを1キロ泳いだだけで終わりにした。
火曜日も余り回復したとは言えず、トレッドミルでキロ6分、8キロ走った後、1キロ泳いで終わりにした。
「水曜日はしっかり練習しなくちゃ」と思っていると、帰りに「明日は休みです。」と言われた。
水曜日でトレーニングを終了するつもりだったのだが、当てが外れた。
最も、レースに向けてサプリメントや備品の調達もあり、水曜日はそれなりに忙しかった。
疲労回復の為にも良かった様に思う。
木曜日から、ぼくは有給休暇をもらっていた。
もう、トレーニングをするつもりはない。宮古島に渡る準備をして一日が暮れた。
4月17日(金)
トライアスロン大会でレース開催地に発つ当日というのは、ぼくは100%寝不足である。
前日遅くまで掛かって、レースの準備をするからである。
トライアスロンのレースは準備するものが多い。前々から、準備しておくべきだと分かっているのに情けない。
ロングのレースだけでも、17戦もしているのに全くと言ってよいほど成長がない。
但し、この寝不足のお陰でレースの前々日は幾ら早くベッドに入っても、
眠れるので翌日からのコンディションを作りやすいというメリットはある。
苦しい言い訳だが・・。
午前9時発の飛行機で、まずは那覇へ。那覇で乗り換え、宮古島へと向かう。
宮古島には、午後1時30分位に着いたが、当然ながら飛行機の中では延々と寝ていた。
この日の宮古島は生憎の雨で肌寒く、天候の良かった東京の方が暖かい位だった。
予想を裏切る寒さの中、薄地のカーディガンをTシャツの上から羽織る始末だった。
まず、重い荷物を置いて落ち着きたい。
例年通り、選手受けつけは後回し。
常宿にしているドイツ村のブリーズベイマリーナへ向かった。
バスの中から、延々と広がる砂糖黍畑を見ていると、今年も宮古島に来たのだと言う気持ちが盛り上がってくる。
空港からドイツ村迄は、約15分だ。又、眠気に襲われる前にホテルに着いた。
今回で8回目の宮古島大会だが、過去7度はこのホテルに泊まっている。
スタート地点である東急前浜ビーチからも、ゴールである総合陸上競技場からも遠いが、
宮古島の自然と海の美しさを楽しむには、絶好の場所でぼくは気に入っている。
又、人が集まる場所からは少し位遠い方が、良いという部分もある。
今年は毎年、相部屋だったnoriさんが教え子が卒業して、宮古島トライアスロンに参加するとかで、
学生達と市内に泊まるため、ぼくは一人参加だった。もちろん、一人部屋に泊まる財力はないから、
誰かと相部屋になる訳だが、それも又好し。旅は道連れである。
数年ぶりに本館に泊まれることになった。相部屋の方の名前はフロントで聞いたが、未だ到着していなかった。
仕事との折り合いを何とか付けて参加する選手が多い。この人もそういう人なのかもしれない、と勝手に想像した。
旅行用のジムバッグの中から、衣類やレールで使用する備品、数少ない貴重品を出して、
ホテルに備え付けの引出に収納して落ち着くと、そろそろ、選手受けつけの残り時間を気にしなければ行けない時間に
なっていた。結局、部屋には1時間余りいただけで、午後4時過ぎの循環バスでぼくは、受付会場である宮古島市総合体育館に向かった。
例年ならば、ここでTシャツ、ハーフパンツ姿になり、宮古島滞在中、この格好で通すのだが、今日は寒くて東京を出たままの
格好に足元だけ、ビーチサンダルに履き換えた。
ホテルで借りた傘で雨を凌ぎながら、バスを降りたぼくは総合体育館で受付を済ませた。
この後、近くの高校で競技説明がある。
総合体育館は開会式で使う為、一か所で出来ない。
毎年参加しているので競技説明会は出ないで、近くのファーストフードでnoriさんとお茶をするというのが、この数年のパターンだったが、
そのnoriさんがこの時点で未だ宮古島に到着していないにも関わらず、「今年はバーコードで出欠の確認をしているから、出た方が良い」
という情報をくれた。はたして、会場の前ではピッピッやっている。気が重いながらも、説明会に参加せざるを得なかった。
肘枕でウツラウツラしていたが、今回の説明会では下らないことで、揉める一幕があって目が覚めた。
それは、バイクのヘルメットに張るゼッケンシールのことである。
通常、沿道から識別し易い様にヘルメットの左と前にシールを張るのが常識である。
ところが、協議説明会の席上、バイク担当の役員がシールを右と後ろに張ると言い出したのだ。
これには、其れまで碌に話を聞いていなかったぼくが驚いた位で、会場中がざわつき始めた。
役員は引っ込みが付かなくなり、マーシャルから見やすいように「右と後ろ」と自説を強引に主張し譲らなかった。
結局、無理が通れば道理が引っ込み、四半世紀の伝統ある宮古島大会でとんでもないローカルルールが出来てしまった。
写真屋が後で仕分けに困るだろうな、と思った。
何だか分からない競技説明会が終わって、総合体育館に戻る。18時30分だ。飛行機の都合で到着の遅れたnoriさん達と合流した。
noriさんは、今年は彼の高校の卒業生と大学のトライアスロン部の生徒、それにコーチのSHさんと4人で参加である。
大学のトライアスロン部の選手を除けば、ぼくも面識のある人たちだ。
noriさんの教え子の女の子は、以前に雑誌の仕事で取材したことがある。4年ぶりだが、向こうは16歳から20歳。
少女から大人になる4年間だ。女の人は、本当に変わる。正直に「大人になりましたね。」とぼくは言った。
「そうですか?」と彼女は笑っていた。年に何回か会っているnoriさんを除けば、久し振りの人たちはやはり4年分の
時間が経過したことを感じさせる。宮古島大会にも新しい血流が加わっていく。
但し、トータルで見ると今年は25回の記念大会ではあるが、世知辛い世相を反映して、マイナスの要素の方に目が行く。
そもそもが来島前から、トータル距離が縮小になるという噂が公然と飛んでいた。
今や日本最大のトライアスロン大会として、つとに名高い宮古島大会だが、
14時間の制限時間と宮古島全域をステージにした200キロの構成は数万人のボランティアの協力があって初めて成り立っている。
参加者は高名な宮古島大会を完走することを名誉とし、参加者を集えばその数だけ集められても、
管理できる人数には限界がある。事実、トライアスロンの大会ではその苛酷さ故に事故死する選手が出ることも珍しくはない。
安全に運営する為には、選手のレベルを一定以上に保たなければならない。
過酷な大会を戦う選手は、自己管理もシビアで大会が終わるまで、遊興に耽ることはない。
大会が終わった後は、疲労困憊して遊ぶところではないという者も多く、東洋一の美しい海を持つ南の楽園を満喫して
去る選手は殆どいない。
ところが、隣の石垣島では様相が全然違うらしいと聞く。2009年度は2000人を集める一大イベントになったオリンピックディスタンスの
51.5キロのレースは、大会前後に遊興に繰り出す選手の需要で島の経済は大いに活況を呈しているらしいのだ。
又、宮古島トライアスロンやアイアンマン等のロングディスタンスの過酷ではあるが、そこにある達成感やロマン、
美しさを伝えてきた日本で唯一のトライアスロン情報誌であるTJ(トライアスロン・ジャパン)が休刊(実際は廃刊に近いと聞く)に
なったこともネガティブな要素だ。この雑誌の休刊が齎した影響の大きさは、計り知れない。
大体が、ぼくにしても自分がアイアンマンハワイに行った時、取材してくれるところはないのか?とか今回9時間台でフィニッシュしても
誰も讃えてくれないのか?とか色々考えてしまう。
更に昨年までは、オフィシャルメカニックを東京から呼んでいたのが、今年は島の自転車屋で行うとか、
ポスターは外注に出さず、デザインは公募にするとか、少しでも経費を節減しようというのが、傍目にも良くわかった。
この数年呼んでいた沖縄出身の有名ロックバンドのミニライブもなかった。その分、パーティの食事は少し良かった気がするが・・。
但し、懐かしい顔は毎年と変わらず居て、SAさん、HIさん、MOさん‥の毎年会う人たちとは再会出来た。
そこでは、時間が止まっているようで、この先何十年後もこの島でこの人たちとお会いできたら、良いなあとしみじみ思った。
ホテルに戻ったのは、午後9時30分頃だった。大会に向かって良い生活リズムを作りたいので、早く眠ってしまいたい。
フロントでルーム番号を告げると、相部屋のSAさんが来られているとのこと。SAさんとは、部屋に戻る廊下で初めてお会いした。
宮古島に出るのは初めてとのお話だったが、トライアスロンはもう13年程されているとのことで、100キロマラソン等は4回も完走しているという。
お年の話をするのは、失礼だが60歳を幾つか超えており、ぼくの両親と同じ年代だ。
しかし、鍛え抜かれた体には余分なものはなく、若者の様な強靭な肉体をしておられる。
自分が20年後、30年後に今の肉体を維持できているか、と言うと分からない。立派なものだといたく感心した。
ぼくは、SAさんへのご挨拶をすます、大浴場へ。良い気持ちになって部屋に戻ると、もうSAさんは寝ていたので、
ぼくもさっさと歯を磨いて寝てしまった。明日は、大会前日忙しくなる。
4月18日(土)
大会前日という日は毎度のことながら良く眠れる。昨晩は10時30分には就寝した。目覚ましは7時30分に鳴らすようにしていたが、
朝までぐっすりだった。ホテルでバイキングの朝食を済ませ、昨日は確認もしなかった自転車を組み立てた。
ブリーズベイマリーナの場合、道を挟んだ「琉球の風」という屋外レストランの脇の大きな倉庫に自転車を全部運んでくれていて、
ここで組み立てやメンテナンスが全て出来るようになっている有難い配慮である。
自転車を組み調整を済ますと、ホテルの前の道を流した。
風が強く向い風と逆風で同じ道なのにアベレージに10キロ以上の差が出た。
宮古島の風は強い。それは毎年のことだった。だから、多摩川や荒川の川沿いの風の強いところで練習している。
恐れることはない、と言い聞かせた。先週の金曜日に都内を50キロ程、走った時、ボトルを握る握力がなくて、大会で水分補給出来る
状態になれるのか不安だったが、大会前日の今日の段階ではボトルを握って中のドリンクを吸い出すことは問題なかった。
明日の準備は、午前中で大体済ませてしまった。
「琉球の風」で昼食に宮古そばを食べた後、スイム会場にバイク預託に行った。
余談だが、ぼくは宮古そばが大の好物で、大会期間中に一日一食は必ず宮古そばを食べている。
独特の味わいの透けたスープにこしのある麺、島唐辛子との相性も良い。これを食べないと宮古島に来た気がしない。
SAさんとスイム会場に入ったのは、午後2時過ぎ位だった。例年と比べると早い。
毎年、ドイツ村から旧平良市内に出て、買い物をしてから、前浜ビーチに向っていたが、先導は100%、noriさんだった。
大会後にレンタカーを借りて島内散策する場合も、運転は全部彼がやっていたので、ぼくは来島歴こそ多いが宮古島の地理は、
余り分かっていない。但し、今回はSAさんが初参加なので、ぼくは便りにされている。
今年は市内には寄らず、真っ直ぐ前浜に行ったが、途中車も人もいない道に出たりして、
大いに不安になったが、結果的には余り時間のロスなく前浜に辿りつけた。
今年から、島の自転車屋さんがメカニックをやってくれていたが、メンテナンスは実費がかからない限りは無料でやってくれたので、
セルフメンテに不安は無かったが、一応見てもらうことにした。流石にトライアスロンの島の自転車屋さんだけあって、
メンテナンスの腕は確かで、最終チェックしてもらって安心感が増した。
そして、自転車を預ける際にちょっとしたトラブルがあった。宮古島ではここ数年、バイク預託の際にボトル(空で良い)を携行するように
口煩く言われていたが、今年は特に厳しくボトルがなければ、取りに帰るようにと言われていた。
要するに大会当日、ボランティアからの給水目当てでボトルを携行しない選手がいると、大会本部としてはボトルを無償提供しなければ、
いけない。買えば、一本500円以上はする類のものだから、これを使い回すことが出来るのと、持って帰られるのでは費用が随分違うので、
ここでもお金の話の訳である。
ぼくとSAさんは、「ボトルは当日で良いでしょ」ということでバイク預託にはボトルを非携行だった。
SAさんは、「取りに戻らんと・・。」と慌てていたが、ぼくはちゃっかりこんなところだけは、ベテランになっていて、
預託が終わった知り合いを探してボトルを借りて、急場を凌いだ。何か去年もこの方法をやった気がする。
来年はちゃんと持って来るようにします・・。
バイク預託の後は、毎年の様に前浜で泳いだ。昨年の9月に東北の釜石で泳いで以来の海だ。
その釜石では、碌な思いでがない。6月にアイアンマンジャパンに出た後、宮古島迄感覚が開きすぎるのは良くないと思って
出場した大会だったが、モチベーションが低すぎて泳ぎ出して数分で気分が悪くなりリタイアした。
人間の不思議だ。3.8キロのスイム、180キロのバイク、42.2キロのラン・・。アイアンマン屈指の難コースであるジャパンで、
足に故障を抱えながら、12時間余りのタイムで完走してから2か月余りしか経ってなかったのだ。
その時の不安と中指の靭帯断裂をした指の故障の不安から、長めに試し泳ぎをした。
不安が消える迄、1.5キロ・・。コースの半分を泳いで、砂浜に戻った。バトルで負傷した指を蹴られれば、万事休すだろうが、
泳ぐことだけなら、3キロ泳げないことはないと思った。「成るようになるさ」と開き直った。
今年からゴーグルをクリアに変えたが、それにしても宮古島の海は余りにも美しい。巨大プールを泳いでいるかの様な透明度だった。
その夜は、ホテルでバイキングの食事をとったが、飯が美味くて毎年のことながら少々食べ過ぎてしまった。
前日に大会を控え、ぼくはSASAさんと短い会話をした。
SASAさんは、去年ヒマラヤに登ったという。
こんな経緯があったらしい。
数年前に退職し、自分のやりたいことを全部しようと決めたと言う。
数年前、100キロマラソンが終わった後、体調を崩し、
その際医者に「宮古島トライアスロンとヒマラヤ登頂とどちらが、体への負担が少ないか」と相談した時、
医者が即座にヒマラヤ登頂だと答えたので、昨年ヒマラヤに登ったと言っていた。
宮古島トライアスロンは人生のやり残しになっていたので、3年間応募を続けて今年念願叶って初参加になった、という。
「完走できるだろうか」というSASAさんに、人生の大先輩に対してぼくは偉そうに「諦めないことです。」と答えた。
それは、中指に爆弾を抱えた自分自身に対するエールでもあった。
風呂に入り、午後9時30分には床に就いたが、一度夜中に目が覚めると、その後は熟睡出来ないままに朝を迎えた。
しかし、大会前日は多少寝不足気味の方が良い、とアイアンマンハワイの常連であるHIさんから過去に教えられたことが
あり、不安は感じなかった。
4月19日(日)
2009 宮古島トライアスロン・・。その当日が遂にやってきた。
去年から、スタートが30分早くなった。その分、こっちの起床も30分早く、午前4時には起きた。
皆、これよりも30分〜1時間早く起きている選手が殆どだから、ぼくがスロースタートなのは間違いない。
但し、準備は朝の段回でやることは全くなく、起きると同時に乳首にバンドエイドを張り、
トライウェアを着て、その上からTシャツを着ると、出発準備は終わりで、
前日の飯が未だ消化しきれていない感じのところに無理に朝食を押し込んだ。
大会当日の食事の取り方は、便のタイミングと合わせて難しいので、これも大会前日迄に十分に取っておけばよく、
直前の食事は、気にしすぎることはない、というのが、ぼくの持つ知識だ。
適量を取って、多めに食べることは止めた。
ブリーズベイマリーナ 午前5時10分発車のバスで東急リゾートに行った。
到着すると、もうレース開始までは90分しかない。
ナンバリングをしてもらった後、バイクにドリンク・サプリメントをセット。
直前にバイクに空気を入れる選手も多くみるが、無用のトラブルを起こす原因に成りかねないので、ぼくは前日に多めに空気を入れておき、
当日はメカ部分は触らない。たった一晩で抜ける空気等知れているし、決戦用のタイヤでトラブルが起きるようなら、
タイヤメーカーの消費者センターに文句を言えば、金は返してくれるだろう。
ランスタートに向うトラックにシューズを渡す。プレスイムのトランジションバッグには、ゴール後の着替えと小銭を入れて、ゴールに向かうトラックに渡す。
これで、サンダルも無くなり、ウェットスーツに着替えてスタートを待つことになる。まあ、その前にトイレに並ぶが、このトイレが一大事業で長蛇の列に30分以上も並ぶ。
この時は、毎年東急リゾートに止まっている選手が死ぬほど羨ましい。
トイレを済ますと、もう時間は殆ど残っていない。レースに直接不要なワックスやバイクスタート時に必要な日焼け止め等をバイクのトランジションバッグに入れて、
所定の位置に引っかけると、前浜ビーチに出た。もう、殆どの選手はスタート位置に付いている。
砂浜を駈けて、ぼくがスタート位置に着いたのは、スタートの号砲2分前のことだった。
スイム
午前7時30分。ついに号砲が鳴った。去年はスターターは小泉元総理だった。今年は覚えていない。
それ位、どたばたしていたし、有名人でもない限り、スターターが誰とか気にしてないとも言える。
ぼくは、スタートの号砲を海中で聞いた。今回程、自分の泳力に期待の持てない大会は過去にない。
とにかく位置取り位は良くしてロスを防ぎ、海から上がってからが勝負だと思った。
スイムには、幾つかのポイントがある。まずは、スタート直後。
宮古島の様に参加者の多い大会だとどの位置でスタートしてもバトルにある程度巻き込まれてしまうのは、避けられない。
コミュニケーションの取れない水中では、他の選手は全員怖い。手を出せば、触れる所を泳いでいる選手の手や足が、遠慮・容赦なく
飛んでくる。勿論、互いに周りにいる選手を蹴ろう等思っていない。互いに怖くただただ必死なのだ。
それだけに、不気味だし怖い。誰かを蹴っても、自分のことに精一杯で気に止めないからだ。
まずは、自分の身は自分で守るというところからだ。近づき過ぎる選手からは、なるべく離れる。
彼らは、周囲を見ていないことが多い。それでも、近づく場合は相手を前に押し出したりして、スペースを作る。
それだけ、気を付けていても万全ではないが、出来る限り気を付けるしかない。
スタート直後のバトルで、気が動転してしまうと、それこそ練習で数キロ泳いで平気な選手が数分で息切れして、
レスキューの世話になり、これまでの努力が水泡に帰す。
やがて、距離が進めば、選手の群れは少しずつ散らばり、泳ぎやすくなる。苦しい時間は永遠ではない。
泳ぎやすくなると、ようやく「綺麗な海だな。」とか「熱帯魚」が泳いでいるとか気づく様になる。
今回は、初めてクリアのゴーグルを使ったが、ゴーグル等何もしていない様な素肌感覚で海の中が見え、
透明に綺麗に見えた。次回からは、色つきのゴーグルを使うことはあるまい。もっと、もっと早くクリアにしとけば良かった。
波は、菱形のコースの最初のボート(600メートル地点)までは、殆どなかった。
全員が方向転換する大きなポイントでは、又選手が密集するので、要注意だ。
しかも、このポイントを曲がる時にかなり大きな波があり、上下の揺れが大きかった。
これは、昨日泳いだ時に確かめていたことで、全く動揺はなかった。
レースの後に選手間で話した話題では、この時の波に関しては、皆「やりづらかった」と言っていた。
波のコンディションとしては、平穏とは言い難く、軒並み選手のタイムは例年より遅かった様だった。
しかし、ぼくの関心は中指を蹴られないことに集中して、波のコンディションの良し悪しは思慮の外だった。
正直言って、コンディションだけならば、もっともっと機嫌の悪い海を何度も何度も泳いでいる。
600メートル地点にいるボートの直ぐ傍に浮かぶ大型ブイを曲がると、
次のポイントは1700メートル地点に浮かぶ大型ブイで、この間は平穏そのものと思われる状態が続いた。
この1キロ以上の長い直線が殆ど楽勝なのは、毎年のことなので安心して泳げた。
選手間の距離も適切で、靭帯断裂の治りきらない中指の痛みはあるものの、余り神経質にならずに泳ぐことが出来た。
1700メートル地点を越えると、ゴール迄残り1300メートル。
ブイの周辺では、やはり選手が密集して泳ぎづらい状況になる。
そして、ここからゴール迄は流れに逆らって泳ぐことになる。これも毎年のことだ。
「とにかく我慢だ。」自分に言い聞かせた。泳力には期待出来ない。
スタート地点の位置取りは、悪くなかったが、じりじりと順位を落としているだろう。
だが、気にすることはない。
ぼくのスイムのタイムは、選手が密集しているタイム帯でほんの5分の間に300人以上いる。
トランジションの早い遅いで、順位がゴロゴロ入れ替わる団子状態である。
余程、ずば抜けた泳力の持ち主でもない限り、スイムで圧倒的なアドバンテージを得るのは、
トライアスロンでは難しい。そうだ。陸に上がれば、ぼくは負けない。
残りの1300メートルは顔を上げれば、東急リゾートが見えて、ゴール迄後少しに見えるが、
潮の流れも強いので、実際は中々ゴールに近づけない。
経験の浅い選手は、海底が目に見えて浅くなるし、東急も見えるので力んで早くスイムアップしようとするが、
ここは、じっくりと構えるのが上策で最後のブイを回ってからが、勝負位に思っておいた方が良い。
足が着くんじゃないかと思う位、海底が近く見える地点が何か所も出てくるが、未だゴールには距離があり肩すかしという
のが続く。3キロという距離の長さを体が、実感する位になってようやく本当のゴールが来る。
ぼくは、今回は慎重に慎重に泳いでいたので、無理もしなかった。
コースの確認もほとんど行わず、前後を泳ぐ選手に誘導は任せた。
比較的疲れの少ない状態で、スイムゴールに辿りついた。足が着く深さになっても、未だ立たない。
指先が砂に触れるまで、泳ぐ方がタイムが良いからだ。
砂浜に出ると、スイムゴール迄は、100メートル位砂浜を走らなければいけない。
時計は1時間6分を回っている。元より、良いタイムではない。
だが、落胆する様なタイムでもない。全てこれからだ。一つ山を越えたのだ。
バイク
トライアスロンのトランジションタイムは全てバイクに参入される。
急いで、バイクスタートしないといけない。
一昨年迄と比べると、時間が早い分、少し寒い位だが成長期の少年の様な午前8時の日差しは弱くなかった。
シャワーを浴び、出来る限り潮を落とす。ウェットスーツを脱いで、トランジションバッグにぶち込む。
ゼッケンベルトを腰に巻くと、バイクに走った。何か忘れているな、思い出せないままバイクをラックから外し、
メットを被りグラスを掛けると、バイクスタート迄、バイクを押して走った。
(日焼け止めを塗っていない。)
焦った。もうトランジションバッグは、ぼくの手の届かないところだ。
スタート地点にいたボランティアに日焼け止めがないか、聞いてみるが、「ない」と素気無い。
このまま、10時間以上もレースをすれば、原爆でも浴びた様になってしまう。
幸い観衆の一人が、「持っている」と言って貸してくれた。
日焼け止めを全身に塗りながら、彼女にお礼を言う。
終盤になると、一秒を気にしているのだが、序盤のこの辺ではスイムアップという一大イベントの後でもあり、
大らかなものだ。日焼けを気にする女子選手位に時間を浪費して、ようやくぼくは走り出した。
スイムが例年よりも遅い上に日焼け止めのトラブルもあり、走り始めた時には1時間15分位になっていたと思う。
5時間半で走れば、バイクゴールが6時間45分。トランジションに5分とすれば、4時間15分で走れば10時間台でゴールだ。
そういう青写真を立てた。「今年はやれるぞ」と自分に言い聞かせる。
与那覇前浜ビーチを出発して、まずは池間大橋を目指す。そこ迄で、30キロだ。
やっている人から見れば、多い練習量ではないが、必要最低限のことはやってきた積りだった。
序盤の20キロ、30キロは、皆元気で飛ばしまくるが、155キロの距離は短くない。
本当の力が試されるのは、中盤以降で80キロ・90キロ走らないと調子を伺うことは出来ない。
ぼくの周りでも、起伏のあるところでは50キロ・60キロという高速でレースが展開されていたが、
余り、この辺りで抜いた抜かれたと気にしても仕方がない。
エイドは10キロ置き位にあった、と思う。最初にボトルを受け取った時、昨日までの練習の成果が出て、
ボトルを握って、中のドリンクを飲めることに安心した。陸に出れば・・。「やれる」
スタート直後は旧平良市内を疾駆する。観衆も多く僕ら選手は多いに気炎を上げた。
選手達に対して、宮古島が最初に牙をいたのは、池間の折り返しだった。
猛烈な向かい風・・。此処まで、飛ばしていた選手達のスピードが一気に鈍る。
この日の宮古島の風は強烈で、8年連続で宮古島を完走しているnoriさんが後で、「今年が一番きつかった。」
と言っている位である。宮古島トライアスロンは、基本的には「風」との戦いで、
コース自体は平坦と言って良い部類なのだが、実際に走れば雑誌で紹介されているほど楽なコースではない。
展開の全ては風が握っている。ぼくは、実際宮古島の風には相当苦しめられた口である。
宮古島参戦当初、通勤バイクと屋内のローラー台をメインで練習していたが、当時は宮古島で吹く風に本当に悩まされた。
高低差の激しいコースや酷暑に対しても、根を上げない当時のぼくだったが、「風」に弱く、宮古島では風の強い年はタイムが
大いに落ち込んだ。ぼくが変わったのは、メイン練習を多摩川サイクリングロードを利用した長距離ライドに切り替えてからである。
多摩川にせよ、荒川にせよ、東京の河川敷は大体風が吹いている。ひどい時は横風でハンドルを持って行かれそうになる位だ。
そこで、70キロ〜100キロ以上走り、その後、ランを1時間以上入れるような練習をするようになって、
ぼくは強くなった。ここ3年程は宮古島では400番台で安定していて、昨年は300番台迄、あと一人の順位だった。
無論、何時かはアイアンマンハワイに出たいと思っているのだから、もう一皮剥けなければいけないが、
自分が大きく崩れる不安は、余り持たなくなっていた。
再び平良市に戻ってきた頃には、一旦風は収まっていた。40キロ、50キロと所々に漁港があり、牧歌的な風景が続く。
新城海岸、吉野海岸、その美しさで有名なビーチを左に見ながら延々と南下し、島内屈指の景勝地、東平安名崎にひた走る。
東平安名崎では、向日葵が咲いていた。レース後に遊びにきて景色を楽しむと最高のポイントだ。
しかし、レースでは岬の突端の灯台を折り返した辺りで再び、向い風になった。
この風はしぶとく中々吹きやまなかった。
75キロ〜80キロの間に
七又風力発電があるのだが、風車がもの凄い勢いで回っていた。
ぼくの周辺を走る選手も一人一人と少なくなり、この辺から自力を試される展開になった。
80キロを過ぎ、90キロ地点が近くなった辺りでぼくは今日のコンディションにようやく自信が持てるようになってきた。
長丁場のレースで、今日は行けそうだなと感じることは珍しい。又、感じることが出来た、としてもこの位走ってようやく、
である。右手中指の不安は、今はもう無かったし、周辺の選手が苦しんでいる「風」も、
そこまでぼくを追い詰めてはいない。序々に気力が充実するのを感じながら、ぼくは走った。
90キロ手前、長い下り坂を越えて直ぐに上りのカーブがありところがあって、ぼくはここで以前その坂に対応出来ず、
ギアを外してしまったことがあった。既にこのコースを走るのは、8回目。
危ないところは、脳内にインプット済みだ。上りに入るとギアを落として難なくクリアした。
風も収まり、何となく安心したところがあった。
隣を走る選手が、すいと寄ってきて、「此処までアベレージはどれ位か?」
と聞かれた。何でも、彼のサイクルコンピューターは故障しているという。
ぼくは、DHバーに肘を乗せたまま、アベレージを確認しようとして、サイクルコンピューターの操作をしようとした。
その瞬間である。道路に突き出た突起に、ロードレーサーの細いタイヤが足を取られた。
あっという間もない。ビンディングペダルで固定されたぼくとバイクは、一緒になって数メートルも投げ出されて、
アスファルトの上を転がった。
(何が起きたんだ。)
状況が把握出来なかった。
周りで観戦していた観客が助け起こそうとしているが、バイクとシューズがくっ付いているので、起こすことが出来ずに
困っている。ぼくは足首を捻って、シューズをペダルから外した。慣習の一人がぼくのバイクを起こして、
ガードレールに立て掛けた。早くも、巡回のマーシャルが一人、ぼくを見つけて駆け寄ってくる。
ぼくは、ようやく痛みにうめき声を上げた。
「救急車を・・。ドクターを呼ばないと・・。」
マーシャルの声が聞こえる。その声は、何処か遠い世界のことの様にぼくの鼓膜に響いた。
ぼくはバイク転倒の際、肩から膝迄、左半身をアスファルトに強く打ちつけ、打撲と擦過傷で大けがと言って良い傷を負った。
打撲の痛みは、直ぐには立ち上がることが出来ない程だったし、肩口と左肘、腰と左膝からは出血していた。
特に左肘は酷く、その傷口はハンバーグの様になっていた。
応援の観衆が随分、集まって心配してくれていた。だが、レースは非常にも進行していく。
次々に動けないぼくの横を後ろから来た選手が抜いていった。
「残念だけど、此処までだな。ドクター来るから動かないで。」
無線で先ほどのマーシャルが連絡をしている。
(何なんだ。これは・・。陸に上がったら・・。これからじゃないのか!
このまま、終わるのか!?
神様、あんた理不尽すぎるだろう・・。)
ぼくの視界は出血と痛み、それに余りにも理不尽な運命という奴への怒りで真赤になっていた。
ぼくは、膝を着き、両手で体を持ち上げると、幽鬼の様にゆらりと立ち上がった。
(一体全体、俺を苛め過ぎだろう・・。
ふざけるな。俺は諦めないぞ・・。)
「大丈夫か?」
ぼくが立つと、マーシャルが驚いて尋ねた。
「走ります。」
「止血だけでも、しないと・・。」
観客の一人が割って入る。
駄目だ。医者が傷を見れば、走らせてくれる訳がなかった。
それに走るか、止めるか、他人様に決めさせたくはなかった。
そうだ。宮古島を走ることは、ぼくの生きている証なんだ。
ガードレールに凭せ掛けられたバイクを道路迄、押していくとぼくは再び、バイクに跨った。
「走りたい。」
ぼくの気魄に押された形で、それ以上、マーシャルは止めろとは言わなかった。
再び、ぼくは走り始めた。
事故を目撃した人々から、逃げるように走り始めたが、よく見れば傷口にべっとりと泥が付いていて、
このまま、最後迄やるのは流石に危ないと思った。
それに右の掌も、大きくズル剥けて、このままではハンドルも握れなかった。
但し、左肘の傷は最も深くて大きかったが、DHポジションを取った時、微妙に肘パッドから外れていて、
気を付ければ、DHポジションを取ることは出来た。しかし、やり辛いことこの上なかった。
気息奄々という有様で、何とか次のエイド迄、走った。
バイクを一旦止めると、ボランティアの人たちが吃驚して、傷だらけのぼくを見ていた。
とにかく、傷口を洗うことだ。ぼくは、もらったボトルの口を開けると、次々に水を傷口にかけた。
それを見て、「大丈夫ですか?」とボランティアの高校生達が、浴びるほどに傷に水を掛けてくれた。
それでも、落ちない泥は、マーシャルが来てタオルで拭いて落としてくれた。
タオルが血みどろになっていた。
「ありがとうございます。」
ぼくは、唯お礼を言った。トライアスロンで自分達選手が前に進むことが出来るのは、こうしたボランティアのサポートがあればこそだ。
傷口を一通り洗ったが急のことでバンドエイドはありませんか、と聞いたが「ない」との返事だった。
何処かで調達しないと行けない。でないと走り辛いことこの上ない。バイクは未だ60キロ以上残しているし、その後は42.2キロのランがある。
こうなってしまうと、とてつもない苦しみが待ち受ける時間になってしまったが、諦める気持ちは微塵もなかった。
もう直ぐ久留間大橋という辺りで、マーシャルの乗るバイクが後ろから来て、ぼくを抜いていこうとした。
ぼくは、バイクに追いすがると、並走しながら怒鳴った。
「手の平に怪我をしています。ハンドルを握れない。次のエイドでバンドエイドを用意出来ませんか。」
このマーシャルには、随分助けられることになった。
「分かった。」と言うと、彼は加速して視界から消えたが、次のエイドでぼくを待っていて、交換用のバンドエイド迄用意して渡してくれた。
「ありがとうございます。」
「貼ろうか」と親切で言ってくれたが、「いえ。走りながらやりますので。」
とぼくは答えた。この事故によるタイムロスは大きかったが、ぼくは微塵もレースを諦めてはいない。
心は折れていなかった。
こうして、最低限の応急処置を施して、久留間大橋を渡った。風は一層強くなる。傷口に刷り込まれるような痛みだ。
耐えて耐えて走り続けた。
丁度、宮古島を一周すると100キロ地点辺りで前浜に戻ってくる。ここから、一路北上していく。
ドリンクを取ろうと、ホルダーを手にした時、自分の左膝がトマトジュースでも零した様に真赤になっているのに気付いた。
出血は暫くすれば止まるだろうと、思っていたが見通しが少し甘かったみたいだ。思ったよりも傷は遥かに深い。
止血しないで、このまま行けるのか?不安が大きくなった。水の入ったボトルに入っていた残りを全部、左膝に流して血を洗い流した。
血が止まってくれないと、完走出来るのかという最低限のところも怪しい気がする。前途は多難だった。
120キロ・・。遂に西平安崎迄走ってきた。風はますます強い。
周囲を走る選手の速度は一層鈍っているが、ぼくの最大の敵は「傷」だった。
凄惨なレースになってきていた。風と汗が傷に染みて、それが時に激痛になった。
エイドを迎える度にボトルを変え、空っぽになるまで傷口にかけるが、痛みが軽くなるのは一時のことだった。
天気は良く、景色は絶景と言って良いところを走っているだけに、自分に圧し掛かる運命が呪わしい。
池間大橋の上から見る海は、限りなく透明な碧で都会の真っ黒な海を見なれた目には、
ここは天国に一番近い島に思えた。今のぼくには、そこにもう一つ別の意味が被さるが・・。
池間大橋を折り返した辺りで130キロ・・。ここは毎年、風の強い所だったと記憶している。
とにかく耐えるしかない。下りでも、時速20キロに達しない区間が続いた。
この風は永遠ではない。「ここが正念場だ。」自分に言い聞かせた。
135キロ地点。ここで、HIさんに会う。
彼女の方がスイムで先行するのだが、そこま差が開く訳ではないので、
バイク終盤のこの辺で追いつくという展開は、余りなかった。
彼女は、ぼくの怪我を見て、やっぱり吃驚していて「大丈夫?」と心配そうだった。
ぼくは、笑うしかなかった。誰がどう見ても大丈夫ではない。
ぼくは彼女の前に出た。(こりゃ、ランで抜かれるな。)
彼女はランが早い。同時のランスタートだったら、調子の良い時でないと対抗出来ない。
今日の感じだと、ランスタートの時に多少のアドバンテージがあってもお話にならず、
追いつかれるだろう。無駄な足掻きではあるが、多少でも前に出ておくことにする。
だが、ぼくも大方の選手同様にバイクゴール迄、僅かだと思いつつ速度を上げられないでいた。
135キロが140キロになり、145キロと残り10キロになって、陸路に道が移ってきても風が弱まらないのだ。
これには、流石に辟易とした。
残り、10キロを切ると、多少風が緩むところも出てきたが追い風はなく、少し飛ばせば又風に吹かれるという展開で、
終に最後迄、バイクではスピードに乗り切れなかった。我慢我慢の展開で、ぼくは宮古島市陸上競技場横のバイクゴールに
帰ってきた。精魂尽きた感じだった。バイクゴールしたぼくを観衆が、驚いた顔で見ている。
左半身は傷だらけで、ウエアもゼッケンも血と泥で赤茶色になっている。
ここまで、ぼくを乗せてきたばいくもバーテープが半ば外れて、人馬共にズタボロの状態だった。
メットをとり、グラスを外し、ランシューズに履き替える短いトランジションを済ませ、
ランスタートをしようとすると、案の定、マーシャルに止められた。
「せめて救急テントに行って、止血して来い」と言う。
だが、テントに行けば5分・10分では、レースに復帰出来ない。下手をすれば、ドクターストップになるだろう。
「未だ、記録を諦めた訳ではないので。」
と言って、ぼくは水で傷口を洗って、汗を落とすと、ランスタートを切った。
その時のぼくは、出血が止まらないことが、どんなに危険なことか等考えてはいなかった。
傷付いた体には、圧倒的に長い42キロの道程に、無謀にも飛び込んだのだった。
ラン
ランスタートはゴールとなる宮古島市総合陸上競技場の脇なので、直ぐに市街に入る。
宮古島トライアスロンの日は、島民にとってはお祭りの様なもので、
仕事のある人も店の前に床几を出して、応援してくれていたりする。
沿道は応援の人並みで賑やかで、バイクの時よりも応援が心強く、気持ちも暖かくなる。
「おい。374番の選手、すごい怪我だな。」
こういう囁きが聞こえると直ぐに、
「お兄さん、がんばれ!」
という応援が追いかけてきた。
ぼくは、応援の人たちから多少ならず、怪我をしているせいで注目されていた。
こうした応援は、幾度もぼくに送られてきた。
(走りきってみせる。)
覚悟を何度も新たにした。
この日は、比較的涼しくそれが救いだったが、風の強さは相変わらずで、
3キロのスイム・155キロのバイクを終え、7時間もレースを続けてきた体には厳しい風だった。
宮古島のランのコースは、内陸の一本の広い県道(190号線〜78号線)を往復するので、
往路と復路の選手が対面で向い合って走ることになる。
無論、ぼくが走り始めた時点では復路側を走っている選手はいないから、対向車線側の復路は完全に開いている状態だ。
沿道に刺された上りが、風を受けてバタバタと靡いている。
(今はきつい風だが、復路は追い風になるだろう。)
最初の5キロ、時には10キロはとにかく慎重に走る。5時間以上もバイクに乗っていた体は走ることに未だ慣れない状態なので、
暫くは体を走るという行為に馴らさないと、本当の意味での調子を推し量ることは出来ない。
ここで、周りの選手を気にしすぎて無理をすると、走れなくって歩いたりすることになりかねない。
市内を抜けると、広い県道の両脇に何処までも砂糖黍畑が広がる風景になる。
エイドは約2.5キロ毎にあり、これがぼく達の生命線になる。
正に砂漠のオアシスでここで、鋭気を養い、再びコースに出て行く。
2つ目のエイドを過ぎて、少し走れるようになってきた頃、
noriさんに会った。毎年より、少し遅いタイミングだった。
「大丈夫ですか?」
やはり、驚かれた。
「はい。」
心にもないことを言う。
「(ゴールの)会場で、逢いましょう。」
noriさんが言う。
「はい。」
これも無理だろう。友を待つことは出来ない。
終わったら、病院へ直行か体育館で治療を受けた後、数時間点滴だ。
10キロに行く手前では、MOさんと出会って暫く一緒に走った。
MOさんは、ぼくが転倒した時、直ぐ後ろでぼくの転倒を見ていたと言う。
「すごい転倒だったから、もう無理だろうと思ったが、追いついてきましたね。
結構な勢いだ。感心しますよ。」
と驚いた声を上げていた。
「諦められ切れないんですよ。」
ぼくは言った。
カーボパーティの前に25周年記念の寄せ書きに、ぼくは書いた。
「宮古島を走るのが、ぼくの生きている証だ」、と。
この日、この時、生きていることを強く強く感じることが出来る瞬間。
絶対に諦めはしない。
「傷、深いですよ。
消毒はしましたか?」
「いいえ・・。」
「していたら、ここには居ないですよね。
もう傷口が、膿み始めているみたいだ。
終わったら、直ぐに病院に行った方が良い。」
MOさんは、言った。
同じトライアスリートだ。止めろと言ったところで、止めないことは分かるのだろう。
出来る限りの助言をくれた。
ぼくは、見ると走る気力が削がれそうなので、傷に関しては、それを凝視してはいなかった。
但し、本人なのでかすり傷なんてものではないこと位は百も承知だ。
「私に構わず、先に行って下さい。
君は、ランは強いでしょう。」
「はい。」
ぼくは、再び一人になった。
宮古島トライアスロンのランコースは平坦だと言われているが、
バイクと同様で、実際走ってみれば、評判程には楽ではない。
結構アップダウンがあるのだ。但し、今年は折り返し前にあった
坂道はコースから外されて、代わりに宮古島市役所迄、コースが延長されるレイアウトに代わっていた。
だが、今年は別の敵が現れている。
例年、ランは陸路で風の影響を受けにくいのだが、今年は例外で選手の気力・体力を多いに蝕んだ。
トップ選手と最初にすれ違ったのも、ぼくが此処まで順調に来ていないにも関わらず、例年同様の10キロ前後の位置で、
今年の島のコンディションに皆が苦しんでいることを象徴していた。
15キロを過ぎた辺りで、noriさんを通して知り合った明星大学のコーチのSHさんを復路に見つけた。
向こうもこちらに気づいて、お互いに手を上げた。流石だ。速い・・。未だ復路を走る選手はちらほらとしかいない。
最初の10キロは1時間で走ったが、ペースは随分鈍って折り返しに辿りついた時のランスプリットは1時間16分だった。
仮に同じだけ、時間が掛かればゴールは11時間30分を越えてしまう。
3種目の中で十分に練習したと言えるのは、ランだけだった。
それがこの体たらくでは、どうしようもない。
血が止まらず、それと一緒に気力も奪われていくようだった。
ぼく自身もランに地力というか爆発力があるのを認識していて、過去の大会では折り返してからスパートして、
追い上げたことが何回もあった。此処まで、今回もそれを期待していた部分があったのだが・・。
甘かった、と思わざるをえない。十分にランの練習をしてきたからこそ、此処まで走れている。
スパート等出来そうもなかった。
折り返して直ぐに往路にバイク後半で会ったHIさんを見つけた。
(速過ぎるよ。)
こりゃ、抜かれるな、と覚悟した。
案の定、折り返して数キロで、抜かれてしまった。
「私は後半迄、ペースが持たないから、追いついてきて。」
と言われたが、ぼくは最後迄、走れるのか怪しい限りだ。
彼女は速い。後は、彼女自身の為に頑張ってほしい。
この位置から追い上げれば、良い順位でゴール出来る筈だ。
彼女を見送ってからは、とことん自分との戦いになった。
往路にも、復路にも幾多の選手が必死にゴールを目指して走る姿が見える。
正直、一人だったら、とっくにくたばっていると思う。
共にレースを走るライバルであり、仲間である選手達やボランティアの人達がいて、
初めて3キロ、155キロ、42.2キロのスイム・バイク・ランを乗り越えられるんだ。
折り返しを過ぎると、予想通り追い風になった。
往路よりも、全然走りやすい。体は疲れているが、これは多いに疲労を軽減してくれそうだ。
20キロ〜30キロというのは、ゴールには未だ未だ遠く、体の疲れもピークを迎える頃で、
この辺から歩き始める選手が増えてくる。但し、この辺で歩き始める選手は往路で無理をしていることが多いのも事実で、
往路で勢い良く、ぼくを抜いていった選手が歩いていたりするのを良くみる。
そして、ここで逆転。
残念ながら、もう立場が入れ替わることはない。ここで歩くというのは、相当深刻なダメージがあるからだ。
「諦めない」
心の中に炎が灯る。
30キロを超える。ぼくは、残り10キロというところ。
往路に同室のSASAさんを見つける。
疲れているなあ。この時点で10キロ弱か・・。
既にレース開始から、10時間を優に越えている。
4時間弱で30キロ以上、走らないと完走出来ない。
ギリギリか。それとも・・。
その必死の姿に声を掛けるタイミングを失った。
(がんばれ!)
心中で一言、エールを送った。
35キロ地点・・、例年だとゴールを強く意識して、その意識の強さが体の疲れを凌駕するのだが、
今年は相変わらず、「次のエイド迄、歩かない」という以外のことは考えられなかった。
エイドに辿りつけば、水を少し含んで、一緒に塩タブを接種し、コーラを一口だけ飲んだ。
スポンジで頭を冷やして、傷口を洗う。そして、エアーサロンパスを疲労の激しいところに噴射する。
体は傷だらけで、釣りそうな足にエアーサロンパスを掛けるのにも場所を選ばなくてはいけなかったので、
ボランティアに任せず、自分で行った。
「大丈夫ですか?」
「はい・・。」
もう、そう答えるしかない。
「後、7キロ、もうちょっとですよ。」
ボランティアの若い女性が励ましてくれた。
「長いなあ・・。」
ぼくが苦笑いすると、
「がんばって!」
と彼女も苦笑いした。
此処まで来た選手が、しかもこんなとんでもない怪我をした選手にとって、残りの7キロが決してが近くないのだと
いうことを認識した様子だった。
次のエイドは何処だ。
もうそれしか考えていない。
一つでも、エイドを外したら完走はおろか、外したエイドの先、500メートルだって走れはしないだろう。
もうボロボロになって、最後のエイド迄来た。ここはランの40キロ地点である。
残りは2キロ・・。
エイドとエイドの間を繋ぐ様に走って此処まで来た。
次がゴールという名の最大のエイドで、そこでは此処までぼくを散々苦しめてきた傷を癒す薬があり、
水も食べ物もたんまりとあり、何よりも有り余る祝福と休養が、ぼくを待っている。
ぼくは此処までのエイドと同様に入念に、傷を洗い、一口の水と塩タブを取り、200キロ近い距離を走ってきた足に
エアサロンパスを拭いた。足は、エアサロンパスのかけ過ぎで、真白になっていた。
傷は大小、肩から膝まで、左半身に及んでいる。
ゴールするのに血だらけはみっともないので、しっかりと洗っておいた。
2キロなんて、這ってでも進める距離だと思うかもしれない。
実際、最後のエイドは飛ばして少しでもタイムを短縮しようとする選手は多い。
出来るなら、ぼくもそうしたい。だが、無理だ。
ここで体を十分メンテしとかないと、後2キロを走れない。
最後の最後の力を振り絞ってぼくは、走りだした。
時計を見る。残りは11時間18分・・。
11時間30分は切れるか。切れれば、完走だけを追ってきたのではない、という最低限の意地は見せてやれる、と思った。
風に翻弄され続けたきつい只でさえ、厳しいコンディションのレースだった。
前を行く選手の誰もかれもが足取りが重かった。
午後6時を過ぎ、南国の日もようやく傾き、夕焼けに空が燃えていた。
残りが1キロになる。残りは6分を切っていた。
(やれるか・・。)
ぼくは、渾身の力を振り絞って、スパートする。
体の中には、もう余力等、全く残っていない。
気力だけのスパートだ。
前を行く選手が一人、一人、手繰る様に近づいてくる。
(そうだ。順位もタイムも諦めてないぞ。
何一つ、諦めてはいないんだ。
ざまあ、見ろ。)
此処まで、自分を散々苦しめてきた理不尽極まるものに、最後の挑戦状を叩きつける。
沿道では、スタートの時とは比較にならない大群衆が、競技場に戻ってきたぼく達選手を待ち受ける。
『ワッー!ワッー!』という大声援!
遂にぼくは、競技場の正面ゲートを潜った。
ここは、宮古島の人口の大部分が詰めかけているんじゃないか、と毎年思う。
恐らく一万人以上の観衆が応援に駆けつけている。
競技場のトラックを3/4。あと、300メートル。
ぼくは、走った。最後の最後迄、前にいる選手を一人でも抜こうと。
競技場に入って二人抜いていた。
そして、ゴール直前で3人目。
タイムは11時間28分・・。目の前で、29分に変わったが、
満足だ。11時間30分を切った。
ゴールテープを両手で握って天高く突き上げると、ぼくは獣の様に雄叫びを上げた。
「うぉっしゃー!」
勝ち負けで言えば、負けのレースだったろう。
でも、それが全てではない。
自分に克ったレースだった。
(よくやったぞ。よくやったぞ。)
心中で何度も呟いた。
*
ゴール後は、酷いものだった。
まず傷の治療の為に体育館に行ったが、全身血だらけ・泥だらけで、先にシャワーを浴びてこいと先生が苦笑いしていた。
シャワーを浴びた後に十時間以上、着ていたトライウェアをもう着たくはない、というか今は見たくもないので、
先に荷物を取りに行った。その時、ドリンクと宮古そばのサービスを目にした。
水もレースを思い出すので、少し飲みたくなく、熱いお茶をもらった。
そばは食べたいと思っていたがお茶を飲むのがやっとで、そばは食べられる状態ではなかった。
途中何度も休みながら、シャワー室に辿りつき、シャワーを浴びた。
傷は想像通り酷いもので、低温に調節して体を洗ったが、それでも悲鳴を上げそうだった。
おまけに吐き気迄、してきた。
その後、先生にようやく見てもらった。傷口を消毒して、ガーゼを当ててテープで留める処置を何か所も先生は行った。
お陰で左半身は真白いガーゼで埋め尽くされる様になった。
一番酷かった左肘に関しては、これは縫合した方が良いから、明日宮古病院に行くように、と言われた。
吐き気を訴えると、案の定点滴ということになった。
約2時間点滴を受けた。レース終了1時間前の花火はここで聞いた。
寝ていると、看護婦さんが「すごい怪我ですね。完走したんですか?」と目を丸くしていた。
「はい。」
ぼくは、少し照れた様に笑った。確かに正気の沙汰じゃないよな。
*
レース会場を後にしたのは、21時発のバスだった。
バスの中で、レース終了の花火が打ち鳴らされるのを聞く。
南国では、もう初夏と言って良い季節か。
空に咲く花火を美しい、とぼくは思った。
*
ホテルに戻った頃には、点滴を受けたお陰で食欲は少し回復していた。
飯を食い、風呂に行き湯船には入れないものの、シャワーを浴びると少しすっきりしていた。
同室のSASAさんが戻ってきていた。
彼は、完走していた。正門を潜った直後にゲートは閉じられたと言う。
そして、ゴールの時計を見た時、既に14時間で時計は止まっていた。
落胆した。駄目だったか・・。しかし、ゴールで待ち受ける数万人の群衆は彼をおおいに祝福してくれた。
狐に摘まれた様だったという。
そうなのだ。宮古島トライアスロンは制限時間の14時間以内にゲートを潜っていれば、
後は14時間0分0秒扱いで、完走を認めてくれるのだ。感極まった、という。
「諦めずに走ればゴール出来ると言ってくれた、あなたのお陰だ。
もう最後は、それしか考えていなかった。」
父親の様な年齢のSASAさんから、お礼を言われた。
ぼくは照れるしかなかった。
こうして、2009年のレースは終わった。
4月20日(月)
ぼくは、水曜日迄、休みを取っている。明日の最終の飛行機で東京に戻るので、今日はゆっくりしたい。
ところだが・・。バイクの引き取りに加え、病院にも行かないといけない。
それに昨晩はレースの疲れがあるにも関わらず、傷が痛んで良く眠れなかった。
SASAさんとタクシーに乗り、昼前に競技場にバイクを引き取りに行った。
ぼくは宮古病院で下ろしてもらい、SASAさんがぼくの分のバイクもタクシーに乗せ、ホテルに持って帰ってくれた。
ぼくを診察した若い先生は、左の肘を見て、「その日じゃないと縫合は無理ですよ。」
と苦笑した。「大きな傷だから、 縫った方が良いんだがな。時間を掛けて治すしかない。」
どれ位時間が掛かるのか、と聞くと左の肘の下の皮を先生が攫んだ。
卓球玉が十分入る位、だらんと皮が下がって、カンガルーのお腹の様になっていた。
「肉が抉られてなくなっているから、ここの肉が白く盛り上がってくる迄です。
まあ、何時かは治りますよ。」
その後、ぼくを裸にして、傷口を徹底的に洗った。
昨日、応急処置を受けたにも関わらず、未だ泥が傷口から少なからず出てきた。
これは、凄い痛みを伴い、ぼくは奥歯を噛みしめて必死で耐えた。
この先生は、如何にも頭の良さそうな先生で色んなことを教えてくれた。
傷口を消毒するのは、今はもう医療の現場ではやってないそうだ。
応急処置としては、傷口を良く洗い、軟膏を塗り、その上から絆創膏やガーゼを当てるのがベストらしい。
傷口に張りつく脱脂綿はNGだとか、話してくれた。「ここは良い処置だ。」と、ズル剥けた右手の平に関しては、
褒めてくれた。「今後、自分で出来ることはとにかく傷口を良く洗い、傷を乾かさない様にすることだ。」
と説明すると、湯船にも入っていいし(入ることが出来れば、だが。)傷の上から傷を作らなければ、スポーツをしても良い。
とも言った。
「もし、傷口が赤黒くなって熱を持つようならば、東京に帰ってから医者に見せなさい。」
「そんなことになりますか?」
ぼくが不安を口にすると、「分からんよ。」と先生はあっけらかんと言った。
そして、最後に完走したのか?と聞いていた。「した」と答えると、先生は爽やかに笑った。
どういう意味の笑いなのか、不明だった。この後、痛み止めの抗生物質と軟膏をもらって病院を出た。
ホテルに戻る時間はないから、そのままアワードに行った。
知り合いに見つかると、どうしても怪我の話になり、何十回も同じ話をした。
ぼくにアベレージを聞いて転倒の直接の原因になった選手に関しては、
ぼくが転倒後、バイクを止めることなく走り去った為、繰り返されるこのエピソードでは完全な悪役だった。
まあ、レース中のことで気を抜いたこちらも悪いんだが・・。
レース結果は、ぼくは何とか400番台でゴールしており、最低限レースは出来たなと満足した。
ここ3年、タイム・順位とも自己ベストを更新したので、一歩後退した訳ではあるが仕方がない。
noriさんやSHさん達は、もう今日帰ると言う。バイクも東京に送ったと言っていた。
アワードで宮古島の戦友達との楽しい一時を過ごし、彼らと別れてホテルに戻るとようやくレースが終わったんだな、という気がした。
その夜は毎年、この夜に行くビアファスでSASAさんと最後の夜を語らった。
4月21日(火)
午前中にバイクを東京に送り、チェックアウトした。
と言っても、最終の飛行機だし、友達も昨日の内に帰ったか今日の昼間に帰る人が殆どなので、
昼前にSASAさんを見送った後は、ぼくは夕方迄ホテルで近くで過ごすことになった。
ふと思い立って、一昨年行った丸吉食堂にレンタサイクルを借りて行ってみることにした。
何処までも続く砂糖黍畑と美しい海岸線をゆっくりゆっくりと変速機もないシティサイクルで走った。
急な坂は上がるのが、骨折りで押して登ったりした。
携帯に落としてきた音楽を聴きながら、30分も走ると丸吉食道に着いた。
ここでKAさんと会った。元有名な柔道家であるKAさんには、レース以外でもお世話になっているのだが、
今年はレース後迄、お話する機会がなかった。KAさんも今日の最終の東京行きで戻るので、
夕方までは応援に来てくれている奥さんを連れて、東平安名崎に行こうと思うと言う。
「それは良い。綺麗な所ですからね。」
奥さんは、未だ行ったことがないと言っていた。
ここの宮古そばは旨い。レースを振り返って大変だったなあと言うようなことを話しながら、
一昨日を振り返った。何かもう随分時間が経ったような気がしていた。
KAさんと別れた後はえっちらよっちら、ゆっくりゆっくり自転車に乗ってホテルに帰った。
凄くよく晴れた爽やかな日だった。
宮古島を後にしたのは、定刻よりも20分遅れの20時・・。
運よく窓際の席で、離陸の時には去りゆく宮古島の夜景を見下ろすことが出来た。
思えば、大変なレースだった。
あの日、あの時、あそこで果てても良いと迄、思ったレースだった。
一生の内でこんな日が何度あるのか?
熱く熱く燃えた一日だった。
やっぱりトライアスロンは最高だ。又、走るきっと・・。
*
25回の記念大会である宮古島トライアスロンから、既にもう3週間が経った。
東京の気候もようやく宮古島に追いついてきて、皐月晴れの今日等は初夏を思わせる。。
レース後、一週間は頭痛がして悪寒もするという状態だったが、大会で負った傷は左の肘を残せば癒えた。
来週中には、又、柔道に復帰出来る状態になるだろう。
東京に戻って直ぐに実家の母親に「戻ったよ。」と連絡した。
心配させるまいと「少し転んだだけ」と話した。
「あんた、傍で見ておれんけん、どんなことしよるか分らんけど、怪我したら如何よ。」
と、母親は何かを察したのか、非常に心配そうに言った。
もし、あれを母が見ていたら冗談でなく、気を失っていたのではないだろうか。
つくづくの親不幸者である。
親孝行と言えることは何一つ出来ず、知らないところで危ないことばかりしている。
込み上げてくるもので、声の調子が変わらない内に電話を切った。
今日は、母の日だ。後で又電話してみようと思った。
こんな短期間にぼくから2度も電話があると、少し気味悪がられそうだが・・。
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