2009年05月10日

2009 宮古島トライアスロン 〜終わらない戦い〜

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何とかロングのトライアスロンの記憶だけは残したいと筆不精が
キーボードに向かっている。昨年の6月以来のブログ更新だが、
色々と世知辛いご時世で理不尽と思うことも多いが、
毎日頑張っている。

昨年の6月にアイアンマンジャパンが終わってから、年末迄、柔道ばかりやっていた。
職場も変わり、前の職場の同僚とここ数年出ていた河口湖マラソンにも出なかったし、
東京マラソンは落選した。青梅マラソンは気付いた時には締め切っており、
宮古島を意識し始めた年末は通常のレース前の体重と比較して、5キロ近くも重かった。
要するにトライアスリートとしては、かなり出遅れている、ということだ。
危機意識があった。苦肉の策として、2月の頭と3月の頭にハーフマラソンを入れた。
大会に参加するのが、コンディションを最も早く整える早道だと、経験の中からぼくは学んでいた。
2月1日に参加した守谷ハーフマラソンの時点では、毎日の様に走り込みを行ったにも関わらず、
体重は余り減らず、未だ3キロはベストより重かった。タイムも1時間30分以上掛ったが、
3月8日に参加した小田原尊徳マラソンでは、守谷のタイムを6分以上縮め、20分台で戻ってきた。
例年の状態に、体は近づいていた。これからは、マラソンレースと走り込みの疲れを取りながら、
バイクとスイム中心の練習に切り替える。
シーズン初戦である宮古島は、夏のレースと比較するとバイクの練習が十分出来ない。
しかし、それは毎年のことだ。唯、去年と比較するとバイクトレーニングの開始が1・2週間遅い。
一回・一回の練習を無駄にしないようにして、大会迄、一回でも多くバイクに乗るようにしなければ・・。

柔道の乱取中に右の中指靭帯断裂の大怪我をしたのが、3月12日のこと。
怪我をした時には、「パキーン」と竹が割れるような音がした。
中指はぼくの右手に力なくぶら下がっている状態で、当初は手を挙げることも出来なかった。
翌日、病院嫌いのぼくがこの時は、珍しく接骨院に行った。
中指の間接が、外れているのだろうと思った。
素人考えで接骨院に行って、間接をはめてもらえば、直ぐに良くなるだろうと考えていた。
宮古島迄、一月強の時間しかなく、怪我に患っている時間はないと思った。
「靭帯が断裂している」と言われた時もピンと来なかったが、最低でも完治するには「一月は掛かる」と言われた。

ぼくは、週末の14日・15日はバイクの練習をするつもりだったのだが、
その週末は、右手のどの指を動かしても、激痛があり中指は触れるだけで悲鳴が出た。
右手は開くことも、閉じることも出来ない。
自転車に乗ってもギアチェンジも出来なければ、ブレーキを握ることも出来ない。
無論、水泳も出来なかった。唯一出来るのは、走ることだった。
仕方なく、その週末は走った。居ても立ってもおられず、焦りから駒沢公園を30キロ以上も走った。
先週のハーフマラソンの疲れは抜けきっておらず、完全にオーバートレーニングになった。
その週は仕事中に気を緩めると、睡魔が襲ってくる始末で仕事にも影響が出てきていた。

翌週の22日に今シーズン初めてバイクに乗った。
右手の人差し指と親指・薬指は動くようになり、ブレーキを握ることが出来るようになったからだ。
未だ、ロードバイクの固いシフトレバーを操作することは出来ないから、ギアチェンジは出来なかった。
ギアチェンジが出来ないので、急坂を上ることは出来ない。それに、人が出てきても、咄嗟にブレーキを握るのも厳しい。
そこで、深夜の駒沢公園のサイクリングロードを走ることにした。
30周して、60キロ以上走った。地面の舗装が少しでも粗いと、中指に激痛が走る。
それでも、バイクに乗ることが出来て少し安心していた。

次にバイクに乗ったのは、28日の土曜日である。
右手は又少し良くなっていて、中指を使わずにシフトチェンジ出来るようになっていた。
バイク→ランという昨年のアイアンマンジャパンで好感触を攫んだ練習を29日の日曜日に行うことにし、
その日は深夜にバイクを組んで、一時間(30キロ弱)程、深夜の一般道を走った。
翌日は計画通り、バイク→ランを行った。
ぼくは、職場が変わり休みが土日になった。
残念ながら、桜の頃・・。今まで、メインの練習場だった多摩川は花見客で溢れ、とても練習にはならない。
環状7号線を走り、荒川サイクリングロードを目指した。桜ケ丘の自宅から荒川迄、遠くて20キロ以上ある。
荒川に着くと荒川サイクリングロードを走り環八迄、下る。
環八経由で戻ってくると、60キロ超だった。
バイクを部屋の前に止めると、直ぐにランシューズに変え、馬事公苑の周りを走った。
約10キロを1時間かけて走った。
それで、へとへとになった。もう3月の末だというのに、この仕上がりではと焦った。

翌週は会社の創立記念日が4月6日の月曜日だったので、多摩川を走りたいと思った。
実践的な練習としては、ここが山になる。
平日の人が比較的少ない多摩川サイクリングロードを90キロ走り、
部屋に戻った後、馬事公苑の周りを先週よりも多く12キロ走った。
ランは距離は延びても時間は、先週と変わらず体がトライアスロンを思い出していることを実感した。
但し急拵えの代償はあり、この週も疲れを仕事に引きずってしまった。

この週末には、バイクを宮古島に送らなければならない。
レース迄、2週間を切った。ぼくは、スイムの練習を本格的再開した。
怪我をしてから、長距離遊泳は出来ないが、水に全く入らなかった訳ではなかった。
水圧をもろに喰らうので、中指は痛いし、水は上手く掴めず苦労をしたが、
50メートルずつ、1時間位泳いだりはしていた。
この週からは、一キロ以上連続で泳ぐ長距離遊泳を中心に練習することにした。
指に痛みは、勿論でるが、中指の回復は順調で靭帯はしっかりしてきていた。

金曜日にバイクの練習不足を危惧して、深夜に50キロ余り、一般道を走った。
環八を羽田方面、目黒通り迄走り、目黒通りに入ると目黒方面環七迄走る。
環七に入ると練馬方面、目白通りを越え千川通り迄、走った。
千川通りを走り環八に戻ると、千歳船橋迄戻り、そのこから城山通りを祖師谷大蔵、成城迄走ると
世田谷通りに出た。大蔵病院に至る急坂を時速30キロをキープして登りきった。
脇道に入り、大蔵プールの前を通り、砧公園に至る。環八を横断して、馬事公苑を一周して部屋に戻った。
翌日は、オミノさんにバイクのレース前チェックを頼む為に吉祥寺迄、少し遠回りして走った。
通常は11キロだが、大回りしたので、17キロ程走っていた。
帰りは、部屋迄走る。昨日の疲れか先週の疲れか分からないが、体が随分重かった。

翌日は吉祥寺迄走り、バイクを引き取るとバイクに乗って部屋に戻り、梱包すると早々に宅急便で送った。
この日が12日・・。レースの一週間前のことだった。

最後の一周は、スイムとランを中心に練習したいと思っていた。
体は疲れが酷く、仕事に影響を出さない様にするのに、本当に苦労した。
平日のトレーニングは、ぼくはスポーツクラブで全て済ましている。
月曜日は、本当にぼろぼろで、スイムを1キロ泳いだだけで終わりにした。
火曜日も余り回復したとは言えず、トレッドミルでキロ6分、8キロ走った後、1キロ泳いで終わりにした。
「水曜日はしっかり練習しなくちゃ」と思っていると、帰りに「明日は休みです。」と言われた。
水曜日でトレーニングを終了するつもりだったのだが、当てが外れた。
最も、レースに向けてサプリメントや備品の調達もあり、水曜日はそれなりに忙しかった。
疲労回復の為にも良かった様に思う。

木曜日から、ぼくは有給休暇をもらっていた。
もう、トレーニングをするつもりはない。宮古島に渡る準備をして一日が暮れた。

4月17日(金)
トライアスロン大会でレース開催地に発つ当日というのは、ぼくは100%寝不足である。
前日遅くまで掛かって、レースの準備をするからである。
トライアスロンのレースは準備するものが多い。前々から、準備しておくべきだと分かっているのに情けない。
ロングのレースだけでも、17戦もしているのに全くと言ってよいほど成長がない。
但し、この寝不足のお陰でレースの前々日は幾ら早くベッドに入っても、
眠れるので翌日からのコンディションを作りやすいというメリットはある。
苦しい言い訳だが・・。
午前9時発の飛行機で、まずは那覇へ。那覇で乗り換え、宮古島へと向かう。
宮古島には、午後1時30分位に着いたが、当然ながら飛行機の中では延々と寝ていた。
この日の宮古島は生憎の雨で肌寒く、天候の良かった東京の方が暖かい位だった。
予想を裏切る寒さの中、薄地のカーディガンをTシャツの上から羽織る始末だった。

まず、重い荷物を置いて落ち着きたい。
例年通り、選手受けつけは後回し。
常宿にしているドイツ村のブリーズベイマリーナへ向かった。
バスの中から、延々と広がる砂糖黍畑を見ていると、今年も宮古島に来たのだと言う気持ちが盛り上がってくる。
空港からドイツ村迄は、約15分だ。又、眠気に襲われる前にホテルに着いた。
今回で8回目の宮古島大会だが、過去7度はこのホテルに泊まっている。
スタート地点である東急前浜ビーチからも、ゴールである総合陸上競技場からも遠いが、
宮古島の自然と海の美しさを楽しむには、絶好の場所でぼくは気に入っている。
又、人が集まる場所からは少し位遠い方が、良いという部分もある。

今年は毎年、相部屋だったnoriさんが教え子が卒業して、宮古島トライアスロンに参加するとかで、
学生達と市内に泊まるため、ぼくは一人参加だった。もちろん、一人部屋に泊まる財力はないから、
誰かと相部屋になる訳だが、それも又好し。旅は道連れである。
数年ぶりに本館に泊まれることになった。相部屋の方の名前はフロントで聞いたが、未だ到着していなかった。
仕事との折り合いを何とか付けて参加する選手が多い。この人もそういう人なのかもしれない、と勝手に想像した。
旅行用のジムバッグの中から、衣類やレールで使用する備品、数少ない貴重品を出して、
ホテルに備え付けの引出に収納して落ち着くと、そろそろ、選手受けつけの残り時間を気にしなければ行けない時間に
なっていた。結局、部屋には1時間余りいただけで、午後4時過ぎの循環バスでぼくは、受付会場である宮古島市総合体育館に向かった。
例年ならば、ここでTシャツ、ハーフパンツ姿になり、宮古島滞在中、この格好で通すのだが、今日は寒くて東京を出たままの
格好に足元だけ、ビーチサンダルに履き換えた。

ホテルで借りた傘で雨を凌ぎながら、バスを降りたぼくは総合体育館で受付を済ませた。
この後、近くの高校で競技説明がある。
総合体育館は開会式で使う為、一か所で出来ない。
毎年参加しているので競技説明会は出ないで、近くのファーストフードでnoriさんとお茶をするというのが、この数年のパターンだったが、
そのnoriさんがこの時点で未だ宮古島に到着していないにも関わらず、「今年はバーコードで出欠の確認をしているから、出た方が良い」
という情報をくれた。はたして、会場の前ではピッピッやっている。気が重いながらも、説明会に参加せざるを得なかった。
肘枕でウツラウツラしていたが、今回の説明会では下らないことで、揉める一幕があって目が覚めた。
それは、バイクのヘルメットに張るゼッケンシールのことである。
通常、沿道から識別し易い様にヘルメットの左と前にシールを張るのが常識である。
ところが、協議説明会の席上、バイク担当の役員がシールを右と後ろに張ると言い出したのだ。
これには、其れまで碌に話を聞いていなかったぼくが驚いた位で、会場中がざわつき始めた。
役員は引っ込みが付かなくなり、マーシャルから見やすいように「右と後ろ」と自説を強引に主張し譲らなかった。
結局、無理が通れば道理が引っ込み、四半世紀の伝統ある宮古島大会でとんでもないローカルルールが出来てしまった。
写真屋が後で仕分けに困るだろうな、と思った。

何だか分からない競技説明会が終わって、総合体育館に戻る。18時30分だ。飛行機の都合で到着の遅れたnoriさん達と合流した。
noriさんは、今年は彼の高校の卒業生と大学のトライアスロン部の生徒、それにコーチのSHさんと4人で参加である。
大学のトライアスロン部の選手を除けば、ぼくも面識のある人たちだ。
noriさんの教え子の女の子は、以前に雑誌の仕事で取材したことがある。4年ぶりだが、向こうは16歳から20歳。
少女から大人になる4年間だ。女の人は、本当に変わる。正直に「大人になりましたね。」とぼくは言った。
「そうですか?」と彼女は笑っていた。年に何回か会っているnoriさんを除けば、久し振りの人たちはやはり4年分の
時間が経過したことを感じさせる。宮古島大会にも新しい血流が加わっていく。

但し、トータルで見ると今年は25回の記念大会ではあるが、世知辛い世相を反映して、マイナスの要素の方に目が行く。
そもそもが来島前から、トータル距離が縮小になるという噂が公然と飛んでいた。
今や日本最大のトライアスロン大会として、つとに名高い宮古島大会だが、
14時間の制限時間と宮古島全域をステージにした200キロの構成は数万人のボランティアの協力があって初めて成り立っている。
参加者は高名な宮古島大会を完走することを名誉とし、参加者を集えばその数だけ集められても、
管理できる人数には限界がある。事実、トライアスロンの大会ではその苛酷さ故に事故死する選手が出ることも珍しくはない。
安全に運営する為には、選手のレベルを一定以上に保たなければならない。
過酷な大会を戦う選手は、自己管理もシビアで大会が終わるまで、遊興に耽ることはない。
大会が終わった後は、疲労困憊して遊ぶところではないという者も多く、東洋一の美しい海を持つ南の楽園を満喫して
去る選手は殆どいない。
ところが、隣の石垣島では様相が全然違うらしいと聞く。2009年度は2000人を集める一大イベントになったオリンピックディスタンスの
51.5キロのレースは、大会前後に遊興に繰り出す選手の需要で島の経済は大いに活況を呈しているらしいのだ。
又、宮古島トライアスロンやアイアンマン等のロングディスタンスの過酷ではあるが、そこにある達成感やロマン、
美しさを伝えてきた日本で唯一のトライアスロン情報誌であるTJ(トライアスロン・ジャパン)が休刊(実際は廃刊に近いと聞く)に
なったこともネガティブな要素だ。この雑誌の休刊が齎した影響の大きさは、計り知れない。
大体が、ぼくにしても自分がアイアンマンハワイに行った時、取材してくれるところはないのか?とか今回9時間台でフィニッシュしても
誰も讃えてくれないのか?とか色々考えてしまう。
更に昨年までは、オフィシャルメカニックを東京から呼んでいたのが、今年は島の自転車屋で行うとか、
ポスターは外注に出さず、デザインは公募にするとか、少しでも経費を節減しようというのが、傍目にも良くわかった。
この数年呼んでいた沖縄出身の有名ロックバンドのミニライブもなかった。その分、パーティの食事は少し良かった気がするが・・。

但し、懐かしい顔は毎年と変わらず居て、SAさん、HIさん、MOさん‥の毎年会う人たちとは再会出来た。
そこでは、時間が止まっているようで、この先何十年後もこの島でこの人たちとお会いできたら、良いなあとしみじみ思った。

ホテルに戻ったのは、午後9時30分頃だった。大会に向かって良い生活リズムを作りたいので、早く眠ってしまいたい。
フロントでルーム番号を告げると、相部屋のSAさんが来られているとのこと。SAさんとは、部屋に戻る廊下で初めてお会いした。
宮古島に出るのは初めてとのお話だったが、トライアスロンはもう13年程されているとのことで、100キロマラソン等は4回も完走しているという。
お年の話をするのは、失礼だが60歳を幾つか超えており、ぼくの両親と同じ年代だ。
しかし、鍛え抜かれた体には余分なものはなく、若者の様な強靭な肉体をしておられる。
自分が20年後、30年後に今の肉体を維持できているか、と言うと分からない。立派なものだといたく感心した。
ぼくは、SAさんへのご挨拶をすます、大浴場へ。良い気持ちになって部屋に戻ると、もうSAさんは寝ていたので、
ぼくもさっさと歯を磨いて寝てしまった。明日は、大会前日忙しくなる。
4月18日(土)
大会前日という日は毎度のことながら良く眠れる。昨晩は10時30分には就寝した。目覚ましは7時30分に鳴らすようにしていたが、
朝までぐっすりだった。ホテルでバイキングの朝食を済ませ、昨日は確認もしなかった自転車を組み立てた。
ブリーズベイマリーナの場合、道を挟んだ「琉球の風」という屋外レストランの脇の大きな倉庫に自転車を全部運んでくれていて、
ここで組み立てやメンテナンスが全て出来るようになっている有難い配慮である。
自転車を組み調整を済ますと、ホテルの前の道を流した。
風が強く向い風と逆風で同じ道なのにアベレージに10キロ以上の差が出た。
宮古島の風は強い。それは毎年のことだった。だから、多摩川や荒川の川沿いの風の強いところで練習している。
恐れることはない、と言い聞かせた。先週の金曜日に都内を50キロ程、走った時、ボトルを握る握力がなくて、大会で水分補給出来る
状態になれるのか不安だったが、大会前日の今日の段階ではボトルを握って中のドリンクを吸い出すことは問題なかった。
明日の準備は、午前中で大体済ませてしまった。
「琉球の風」で昼食に宮古そばを食べた後、スイム会場にバイク預託に行った。
余談だが、ぼくは宮古そばが大の好物で、大会期間中に一日一食は必ず宮古そばを食べている。
独特の味わいの透けたスープにこしのある麺、島唐辛子との相性も良い。これを食べないと宮古島に来た気がしない。
SAさんとスイム会場に入ったのは、午後2時過ぎ位だった。例年と比べると早い。
毎年、ドイツ村から旧平良市内に出て、買い物をしてから、前浜ビーチに向っていたが、先導は100%、noriさんだった。
大会後にレンタカーを借りて島内散策する場合も、運転は全部彼がやっていたので、ぼくは来島歴こそ多いが宮古島の地理は、
余り分かっていない。但し、今回はSAさんが初参加なので、ぼくは便りにされている。
今年は市内には寄らず、真っ直ぐ前浜に行ったが、途中車も人もいない道に出たりして、
大いに不安になったが、結果的には余り時間のロスなく前浜に辿りつけた。
今年から、島の自転車屋さんがメカニックをやってくれていたが、メンテナンスは実費がかからない限りは無料でやってくれたので、
セルフメンテに不安は無かったが、一応見てもらうことにした。流石にトライアスロンの島の自転車屋さんだけあって、
メンテナンスの腕は確かで、最終チェックしてもらって安心感が増した。
そして、自転車を預ける際にちょっとしたトラブルがあった。宮古島ではここ数年、バイク預託の際にボトル(空で良い)を携行するように
口煩く言われていたが、今年は特に厳しくボトルがなければ、取りに帰るようにと言われていた。
要するに大会当日、ボランティアからの給水目当てでボトルを携行しない選手がいると、大会本部としてはボトルを無償提供しなければ、
いけない。買えば、一本500円以上はする類のものだから、これを使い回すことが出来るのと、持って帰られるのでは費用が随分違うので、
ここでもお金の話の訳である。
ぼくとSAさんは、「ボトルは当日で良いでしょ」ということでバイク預託にはボトルを非携行だった。
SAさんは、「取りに戻らんと・・。」と慌てていたが、ぼくはちゃっかりこんなところだけは、ベテランになっていて、
預託が終わった知り合いを探してボトルを借りて、急場を凌いだ。何か去年もこの方法をやった気がする。
来年はちゃんと持って来るようにします・・。
バイク預託の後は、毎年の様に前浜で泳いだ。昨年の9月に東北の釜石で泳いで以来の海だ。
その釜石では、碌な思いでがない。6月にアイアンマンジャパンに出た後、宮古島迄感覚が開きすぎるのは良くないと思って
出場した大会だったが、モチベーションが低すぎて泳ぎ出して数分で気分が悪くなりリタイアした。
人間の不思議だ。3.8キロのスイム、180キロのバイク、42.2キロのラン・・。アイアンマン屈指の難コースであるジャパンで、
足に故障を抱えながら、12時間余りのタイムで完走してから2か月余りしか経ってなかったのだ。
その時の不安と中指の靭帯断裂をした指の故障の不安から、長めに試し泳ぎをした。
不安が消える迄、1.5キロ・・。コースの半分を泳いで、砂浜に戻った。バトルで負傷した指を蹴られれば、万事休すだろうが、
泳ぐことだけなら、3キロ泳げないことはないと思った。「成るようになるさ」と開き直った。
今年からゴーグルをクリアに変えたが、それにしても宮古島の海は余りにも美しい。巨大プールを泳いでいるかの様な透明度だった。
その夜は、ホテルでバイキングの食事をとったが、飯が美味くて毎年のことながら少々食べ過ぎてしまった。
前日に大会を控え、ぼくはSASAさんと短い会話をした。
SASAさんは、去年ヒマラヤに登ったという。
こんな経緯があったらしい。
数年前に退職し、自分のやりたいことを全部しようと決めたと言う。
数年前、100キロマラソンが終わった後、体調を崩し、
その際医者に「宮古島トライアスロンとヒマラヤ登頂とどちらが、体への負担が少ないか」と相談した時、
医者が即座にヒマラヤ登頂だと答えたので、昨年ヒマラヤに登ったと言っていた。
宮古島トライアスロンは人生のやり残しになっていたので、3年間応募を続けて今年念願叶って初参加になった、という。
「完走できるだろうか」というSASAさんに、人生の大先輩に対してぼくは偉そうに「諦めないことです。」と答えた。
それは、中指に爆弾を抱えた自分自身に対するエールでもあった。
風呂に入り、午後9時30分には床に就いたが、一度夜中に目が覚めると、その後は熟睡出来ないままに朝を迎えた。
しかし、大会前日は多少寝不足気味の方が良い、とアイアンマンハワイの常連であるHIさんから過去に教えられたことが
あり、不安は感じなかった。
4月19日(日)
2009 宮古島トライアスロン・・。その当日が遂にやってきた。
去年から、スタートが30分早くなった。その分、こっちの起床も30分早く、午前4時には起きた。
皆、これよりも30分〜1時間早く起きている選手が殆どだから、ぼくがスロースタートなのは間違いない。
但し、準備は朝の段回でやることは全くなく、起きると同時に乳首にバンドエイドを張り、
トライウェアを着て、その上からTシャツを着ると、出発準備は終わりで、
前日の飯が未だ消化しきれていない感じのところに無理に朝食を押し込んだ。
大会当日の食事の取り方は、便のタイミングと合わせて難しいので、これも大会前日迄に十分に取っておけばよく、
直前の食事は、気にしすぎることはない、というのが、ぼくの持つ知識だ。
適量を取って、多めに食べることは止めた。
ブリーズベイマリーナ 午前5時10分発車のバスで東急リゾートに行った。
到着すると、もうレース開始までは90分しかない。

ナンバリングをしてもらった後、バイクにドリンク・サプリメントをセット。
直前にバイクに空気を入れる選手も多くみるが、無用のトラブルを起こす原因に成りかねないので、ぼくは前日に多めに空気を入れておき、
当日はメカ部分は触らない。たった一晩で抜ける空気等知れているし、決戦用のタイヤでトラブルが起きるようなら、
タイヤメーカーの消費者センターに文句を言えば、金は返してくれるだろう。
ランスタートに向うトラックにシューズを渡す。プレスイムのトランジションバッグには、ゴール後の着替えと小銭を入れて、ゴールに向かうトラックに渡す。
これで、サンダルも無くなり、ウェットスーツに着替えてスタートを待つことになる。まあ、その前にトイレに並ぶが、このトイレが一大事業で長蛇の列に30分以上も並ぶ。
この時は、毎年東急リゾートに止まっている選手が死ぬほど羨ましい。
トイレを済ますと、もう時間は殆ど残っていない。レースに直接不要なワックスやバイクスタート時に必要な日焼け止め等をバイクのトランジションバッグに入れて、
所定の位置に引っかけると、前浜ビーチに出た。もう、殆どの選手はスタート位置に付いている。
砂浜を駈けて、ぼくがスタート位置に着いたのは、スタートの号砲2分前のことだった。

スイム

午前7時30分。ついに号砲が鳴った。去年はスターターは小泉元総理だった。今年は覚えていない。
それ位、どたばたしていたし、有名人でもない限り、スターターが誰とか気にしてないとも言える。
ぼくは、スタートの号砲を海中で聞いた。今回程、自分の泳力に期待の持てない大会は過去にない。
とにかく位置取り位は良くしてロスを防ぎ、海から上がってからが勝負だと思った。
スイムには、幾つかのポイントがある。まずは、スタート直後。
宮古島の様に参加者の多い大会だとどの位置でスタートしてもバトルにある程度巻き込まれてしまうのは、避けられない。
コミュニケーションの取れない水中では、他の選手は全員怖い。手を出せば、触れる所を泳いでいる選手の手や足が、遠慮・容赦なく
飛んでくる。勿論、互いに周りにいる選手を蹴ろう等思っていない。互いに怖くただただ必死なのだ。
それだけに、不気味だし怖い。誰かを蹴っても、自分のことに精一杯で気に止めないからだ。
まずは、自分の身は自分で守るというところからだ。近づき過ぎる選手からは、なるべく離れる。
彼らは、周囲を見ていないことが多い。それでも、近づく場合は相手を前に押し出したりして、スペースを作る。
それだけ、気を付けていても万全ではないが、出来る限り気を付けるしかない。
スタート直後のバトルで、気が動転してしまうと、それこそ練習で数キロ泳いで平気な選手が数分で息切れして、
レスキューの世話になり、これまでの努力が水泡に帰す。
やがて、距離が進めば、選手の群れは少しずつ散らばり、泳ぎやすくなる。苦しい時間は永遠ではない。
泳ぎやすくなると、ようやく「綺麗な海だな。」とか「熱帯魚」が泳いでいるとか気づく様になる。
今回は、初めてクリアのゴーグルを使ったが、ゴーグル等何もしていない様な素肌感覚で海の中が見え、
透明に綺麗に見えた。次回からは、色つきのゴーグルを使うことはあるまい。もっと、もっと早くクリアにしとけば良かった。
波は、菱形のコースの最初のボート(600メートル地点)までは、殆どなかった。
全員が方向転換する大きなポイントでは、又選手が密集するので、要注意だ。
しかも、このポイントを曲がる時にかなり大きな波があり、上下の揺れが大きかった。
これは、昨日泳いだ時に確かめていたことで、全く動揺はなかった。
レースの後に選手間で話した話題では、この時の波に関しては、皆「やりづらかった」と言っていた。
波のコンディションとしては、平穏とは言い難く、軒並み選手のタイムは例年より遅かった様だった。
しかし、ぼくの関心は中指を蹴られないことに集中して、波のコンディションの良し悪しは思慮の外だった。
正直言って、コンディションだけならば、もっともっと機嫌の悪い海を何度も何度も泳いでいる。
600メートル地点にいるボートの直ぐ傍に浮かぶ大型ブイを曲がると、
次のポイントは1700メートル地点に浮かぶ大型ブイで、この間は平穏そのものと思われる状態が続いた。
この1キロ以上の長い直線が殆ど楽勝なのは、毎年のことなので安心して泳げた。
選手間の距離も適切で、靭帯断裂の治りきらない中指の痛みはあるものの、余り神経質にならずに泳ぐことが出来た。
1700メートル地点を越えると、ゴール迄残り1300メートル。
ブイの周辺では、やはり選手が密集して泳ぎづらい状況になる。
そして、ここからゴール迄は流れに逆らって泳ぐことになる。これも毎年のことだ。
「とにかく我慢だ。」自分に言い聞かせた。泳力には期待出来ない。
スタート地点の位置取りは、悪くなかったが、じりじりと順位を落としているだろう。
だが、気にすることはない。
ぼくのスイムのタイムは、選手が密集しているタイム帯でほんの5分の間に300人以上いる。
トランジションの早い遅いで、順位がゴロゴロ入れ替わる団子状態である。
余程、ずば抜けた泳力の持ち主でもない限り、スイムで圧倒的なアドバンテージを得るのは、
トライアスロンでは難しい。そうだ。陸に上がれば、ぼくは負けない。
残りの1300メートルは顔を上げれば、東急リゾートが見えて、ゴール迄後少しに見えるが、
潮の流れも強いので、実際は中々ゴールに近づけない。
経験の浅い選手は、海底が目に見えて浅くなるし、東急も見えるので力んで早くスイムアップしようとするが、
ここは、じっくりと構えるのが上策で最後のブイを回ってからが、勝負位に思っておいた方が良い。
足が着くんじゃないかと思う位、海底が近く見える地点が何か所も出てくるが、未だゴールには距離があり肩すかしという
のが続く。3キロという距離の長さを体が、実感する位になってようやく本当のゴールが来る。
ぼくは、今回は慎重に慎重に泳いでいたので、無理もしなかった。
コースの確認もほとんど行わず、前後を泳ぐ選手に誘導は任せた。
比較的疲れの少ない状態で、スイムゴールに辿りついた。足が着く深さになっても、未だ立たない。
指先が砂に触れるまで、泳ぐ方がタイムが良いからだ。
砂浜に出ると、スイムゴール迄は、100メートル位砂浜を走らなければいけない。
時計は1時間6分を回っている。元より、良いタイムではない。
だが、落胆する様なタイムでもない。全てこれからだ。一つ山を越えたのだ。
バイク
トライアスロンのトランジションタイムは全てバイクに参入される。
急いで、バイクスタートしないといけない。
一昨年迄と比べると、時間が早い分、少し寒い位だが成長期の少年の様な午前8時の日差しは弱くなかった。
シャワーを浴び、出来る限り潮を落とす。ウェットスーツを脱いで、トランジションバッグにぶち込む。
ゼッケンベルトを腰に巻くと、バイクに走った。何か忘れているな、思い出せないままバイクをラックから外し、
メットを被りグラスを掛けると、バイクスタート迄、バイクを押して走った。
(日焼け止めを塗っていない。)
焦った。もうトランジションバッグは、ぼくの手の届かないところだ。
スタート地点にいたボランティアに日焼け止めがないか、聞いてみるが、「ない」と素気無い。
このまま、10時間以上もレースをすれば、原爆でも浴びた様になってしまう。
幸い観衆の一人が、「持っている」と言って貸してくれた。
日焼け止めを全身に塗りながら、彼女にお礼を言う。
終盤になると、一秒を気にしているのだが、序盤のこの辺ではスイムアップという一大イベントの後でもあり、
大らかなものだ。日焼けを気にする女子選手位に時間を浪費して、ようやくぼくは走り出した。
スイムが例年よりも遅い上に日焼け止めのトラブルもあり、走り始めた時には1時間15分位になっていたと思う。
5時間半で走れば、バイクゴールが6時間45分。トランジションに5分とすれば、4時間15分で走れば10時間台でゴールだ。
そういう青写真を立てた。「今年はやれるぞ」と自分に言い聞かせる。
与那覇前浜ビーチを出発して、まずは池間大橋を目指す。そこ迄で、30キロだ。
やっている人から見れば、多い練習量ではないが、必要最低限のことはやってきた積りだった。
序盤の20キロ、30キロは、皆元気で飛ばしまくるが、155キロの距離は短くない。
本当の力が試されるのは、中盤以降で80キロ・90キロ走らないと調子を伺うことは出来ない。
ぼくの周りでも、起伏のあるところでは50キロ・60キロという高速でレースが展開されていたが、
余り、この辺りで抜いた抜かれたと気にしても仕方がない。
エイドは10キロ置き位にあった、と思う。最初にボトルを受け取った時、昨日までの練習の成果が出て、
ボトルを握って、中のドリンクを飲めることに安心した。陸に出れば・・。「やれる」
スタート直後は旧平良市内を疾駆する。観衆も多く僕ら選手は多いに気炎を上げた。
選手達に対して、宮古島が最初に牙を剝いたのは、池間の折り返しだった。
猛烈な向かい風・・。此処まで、飛ばしていた選手達のスピードが一気に鈍る。
この日の宮古島の風は強烈で、8年連続で宮古島を完走しているnoriさんが後で、「今年が一番きつかった。」
と言っている位である。宮古島トライアスロンは、基本的には「風」との戦いで、
コース自体は平坦と言って良い部類なのだが、実際に走れば雑誌で紹介されているほど楽なコースではない。
展開の全ては風が握っている。ぼくは、実際宮古島の風には相当苦しめられた口である。
宮古島参戦当初、通勤バイクと屋内のローラー台をメインで練習していたが、当時は宮古島で吹く風に本当に悩まされた。
高低差の激しいコースや酷暑に対しても、根を上げない当時のぼくだったが、「風」に弱く、宮古島では風の強い年はタイムが
大いに落ち込んだ。ぼくが変わったのは、メイン練習を多摩川サイクリングロードを利用した長距離ライドに切り替えてからである。
多摩川にせよ、荒川にせよ、東京の河川敷は大体風が吹いている。ひどい時は横風でハンドルを持って行かれそうになる位だ。
そこで、70キロ〜100キロ以上走り、その後、ランを1時間以上入れるような練習をするようになって、
ぼくは強くなった。ここ3年程は宮古島では400番台で安定していて、昨年は300番台迄、あと一人の順位だった。
無論、何時かはアイアンマンハワイに出たいと思っているのだから、もう一皮剥けなければいけないが、
自分が大きく崩れる不安は、余り持たなくなっていた。
再び平良市に戻ってきた頃には、一旦風は収まっていた。40キロ、50キロと所々に漁港があり、牧歌的な風景が続く。
新城海岸、吉野海岸、その美しさで有名なビーチを左に見ながら延々と南下し、島内屈指の景勝地、東平安名崎にひた走る。
東平安名崎では、向日葵が咲いていた。レース後に遊びにきて景色を楽しむと最高のポイントだ。
しかし、レースでは岬の突端の灯台を折り返した辺りで再び、向い風になった。
この風はしぶとく中々吹きやまなかった。
75キロ〜80キロの間に
七又風力発電があるのだが、風車がもの凄い勢いで回っていた。
ぼくの周辺を走る選手も一人一人と少なくなり、この辺から自力を試される展開になった。
80キロを過ぎ、90キロ地点が近くなった辺りでぼくは今日のコンディションにようやく自信が持てるようになってきた。
長丁場のレースで、今日は行けそうだなと感じることは珍しい。又、感じることが出来た、としてもこの位走ってようやく、
である。右手中指の不安は、今はもう無かったし、周辺の選手が苦しんでいる「風」も、
そこまでぼくを追い詰めてはいない。序々に気力が充実するのを感じながら、ぼくは走った。
90キロ手前、長い下り坂を越えて直ぐに上りのカーブがありところがあって、ぼくはここで以前その坂に対応出来ず、
ギアを外してしまったことがあった。既にこのコースを走るのは、8回目。
危ないところは、脳内にインプット済みだ。上りに入るとギアを落として難なくクリアした。
風も収まり、何となく安心したところがあった。
隣を走る選手が、すいと寄ってきて、「此処までアベレージはどれ位か?」
と聞かれた。何でも、彼のサイクルコンピューターは故障しているという。
ぼくは、DHバーに肘を乗せたまま、アベレージを確認しようとして、サイクルコンピューターの操作をしようとした。
その瞬間である。道路に突き出た突起に、ロードレーサーの細いタイヤが足を取られた。
あっという間もない。ビンディングペダルで固定されたぼくとバイクは、一緒になって数メートルも投げ出されて、
アスファルトの上を転がった。
(何が起きたんだ。)
状況が把握出来なかった。
周りで観戦していた観客が助け起こそうとしているが、バイクとシューズがくっ付いているので、起こすことが出来ずに
困っている。ぼくは足首を捻って、シューズをペダルから外した。慣習の一人がぼくのバイクを起こして、
ガードレールに立て掛けた。早くも、巡回のマーシャルが一人、ぼくを見つけて駆け寄ってくる。
ぼくは、ようやく痛みにうめき声を上げた。
「救急車を・・。ドクターを呼ばないと・・。」
マーシャルの声が聞こえる。その声は、何処か遠い世界のことの様にぼくの鼓膜に響いた。
ぼくはバイク転倒の際、肩から膝迄、左半身をアスファルトに強く打ちつけ、打撲と擦過傷で大けがと言って良い傷を負った。
打撲の痛みは、直ぐには立ち上がることが出来ない程だったし、肩口と左肘、腰と左膝からは出血していた。
特に左肘は酷く、その傷口はハンバーグの様になっていた。
応援の観衆が随分、集まって心配してくれていた。だが、レースは非常にも進行していく。
次々に動けないぼくの横を後ろから来た選手が抜いていった。
「残念だけど、此処までだな。ドクター来るから動かないで。」
無線で先ほどのマーシャルが連絡をしている。
(何なんだ。これは・・。陸に上がったら・・。これからじゃないのか!
このまま、終わるのか!?
神様、あんた理不尽すぎるだろう・・。)
ぼくの視界は出血と痛み、それに余りにも理不尽な運命という奴への怒りで真赤になっていた。
ぼくは、膝を着き、両手で体を持ち上げると、幽鬼の様にゆらりと立ち上がった。
(一体全体、俺を苛め過ぎだろう・・。
ふざけるな。俺は諦めないぞ・・。)
「大丈夫か?」
ぼくが立つと、マーシャルが驚いて尋ねた。
「走ります。」
「止血だけでも、しないと・・。」
観客の一人が割って入る。
駄目だ。医者が傷を見れば、走らせてくれる訳がなかった。
それに走るか、止めるか、他人様に決めさせたくはなかった。
そうだ。宮古島を走ることは、ぼくの生きている証なんだ。
ガードレールに凭せ掛けられたバイクを道路迄、押していくとぼくは再び、バイクに跨った。
「走りたい。」
ぼくの気魄に押された形で、それ以上、マーシャルは止めろとは言わなかった。
再び、ぼくは走り始めた。
事故を目撃した人々から、逃げるように走り始めたが、よく見れば傷口にべっとりと泥が付いていて、
このまま、最後迄やるのは流石に危ないと思った。
それに右の掌も、大きくズル剥けて、このままではハンドルも握れなかった。
但し、左肘の傷は最も深くて大きかったが、DHポジションを取った時、微妙に肘パッドから外れていて、
気を付ければ、DHポジションを取ることは出来た。しかし、やり辛いことこの上なかった。
気息奄々という有様で、何とか次のエイド迄、走った。
バイクを一旦止めると、ボランティアの人たちが吃驚して、傷だらけのぼくを見ていた。
とにかく、傷口を洗うことだ。ぼくは、もらったボトルの口を開けると、次々に水を傷口にかけた。
それを見て、「大丈夫ですか?」とボランティアの高校生達が、浴びるほどに傷に水を掛けてくれた。
それでも、落ちない泥は、マーシャルが来てタオルで拭いて落としてくれた。
タオルが血みどろになっていた。
「ありがとうございます。」
ぼくは、唯お礼を言った。トライアスロンで自分達選手が前に進むことが出来るのは、こうしたボランティアのサポートがあればこそだ。
傷口を一通り洗ったが急のことでバンドエイドはありませんか、と聞いたが「ない」との返事だった。
何処かで調達しないと行けない。でないと走り辛いことこの上ない。バイクは未だ60キロ以上残しているし、その後は42.2キロのランがある。
こうなってしまうと、とてつもない苦しみが待ち受ける時間になってしまったが、諦める気持ちは微塵もなかった。
もう直ぐ久留間大橋という辺りで、マーシャルの乗るバイクが後ろから来て、ぼくを抜いていこうとした。
ぼくは、バイクに追いすがると、並走しながら怒鳴った。
「手の平に怪我をしています。ハンドルを握れない。次のエイドでバンドエイドを用意出来ませんか。」
このマーシャルには、随分助けられることになった。
「分かった。」と言うと、彼は加速して視界から消えたが、次のエイドでぼくを待っていて、交換用のバンドエイド迄用意して渡してくれた。
「ありがとうございます。」
「貼ろうか」と親切で言ってくれたが、「いえ。走りながらやりますので。」
とぼくは答えた。この事故によるタイムロスは大きかったが、ぼくは微塵もレースを諦めてはいない。
心は折れていなかった。
こうして、最低限の応急処置を施して、久留間大橋を渡った。風は一層強くなる。傷口に刷り込まれるような痛みだ。
耐えて耐えて走り続けた。
丁度、宮古島を一周すると100キロ地点辺りで前浜に戻ってくる。ここから、一路北上していく。
ドリンクを取ろうと、ホルダーを手にした時、自分の左膝がトマトジュースでも零した様に真赤になっているのに気付いた。
出血は暫くすれば止まるだろうと、思っていたが見通しが少し甘かったみたいだ。思ったよりも傷は遥かに深い。
止血しないで、このまま行けるのか?不安が大きくなった。水の入ったボトルに入っていた残りを全部、左膝に流して血を洗い流した。
血が止まってくれないと、完走出来るのかという最低限のところも怪しい気がする。前途は多難だった。
120キロ・・。遂に西平安崎迄走ってきた。風はますます強い。
周囲を走る選手の速度は一層鈍っているが、ぼくの最大の敵は「傷」だった。
凄惨なレースになってきていた。風と汗が傷に染みて、それが時に激痛になった。
エイドを迎える度にボトルを変え、空っぽになるまで傷口にかけるが、痛みが軽くなるのは一時のことだった。
天気は良く、景色は絶景と言って良いところを走っているだけに、自分に圧し掛かる運命が呪わしい。
池間大橋の上から見る海は、限りなく透明な碧で都会の真っ黒な海を見なれた目には、
ここは天国に一番近い島に思えた。今のぼくには、そこにもう一つ別の意味が被さるが・・。
池間大橋を折り返した辺りで130キロ・・。ここは毎年、風の強い所だったと記憶している。
とにかく耐えるしかない。下りでも、時速20キロに達しない区間が続いた。
この風は永遠ではない。「ここが正念場だ。」自分に言い聞かせた。
135キロ地点。ここで、HIさんに会う。
彼女の方がスイムで先行するのだが、そこま差が開く訳ではないので、
バイク終盤のこの辺で追いつくという展開は、余りなかった。
彼女は、ぼくの怪我を見て、やっぱり吃驚していて「大丈夫?」と心配そうだった。
ぼくは、笑うしかなかった。誰がどう見ても大丈夫ではない。
ぼくは彼女の前に出た。(こりゃ、ランで抜かれるな。)
彼女はランが早い。同時のランスタートだったら、調子の良い時でないと対抗出来ない。
今日の感じだと、ランスタートの時に多少のアドバンテージがあってもお話にならず、
追いつかれるだろう。無駄な足掻きではあるが、多少でも前に出ておくことにする。
だが、ぼくも大方の選手同様にバイクゴール迄、僅かだと思いつつ速度を上げられないでいた。
135キロが140キロになり、145キロと残り10キロになって、陸路に道が移ってきても風が弱まらないのだ。
これには、流石に辟易とした。
残り、10キロを切ると、多少風が緩むところも出てきたが追い風はなく、少し飛ばせば又風に吹かれるという展開で、
終に最後迄、バイクではスピードに乗り切れなかった。我慢我慢の展開で、ぼくは宮古島市陸上競技場横のバイクゴールに
帰ってきた。精魂尽きた感じだった。バイクゴールしたぼくを観衆が、驚いた顔で見ている。
左半身は傷だらけで、ウエアもゼッケンも血と泥で赤茶色になっている。
ここまで、ぼくを乗せてきたばいくもバーテープが半ば外れて、人馬共にズタボロの状態だった。
メットをとり、グラスを外し、ランシューズに履き替える短いトランジションを済ませ、
ランスタートをしようとすると、案の定、マーシャルに止められた。
「せめて救急テントに行って、止血して来い」と言う。
だが、テントに行けば5分・10分では、レースに復帰出来ない。下手をすれば、ドクターストップになるだろう。
「未だ、記録を諦めた訳ではないので。」
と言って、ぼくは水で傷口を洗って、汗を落とすと、ランスタートを切った。
その時のぼくは、出血が止まらないことが、どんなに危険なことか等考えてはいなかった。
傷付いた体には、圧倒的に長い42キロの道程に、無謀にも飛び込んだのだった。
ラン
ランスタートはゴールとなる宮古島市総合陸上競技場の脇なので、直ぐに市街に入る。
宮古島トライアスロンの日は、島民にとってはお祭りの様なもので、
仕事のある人も店の前に床几を出して、応援してくれていたりする。
沿道は応援の人並みで賑やかで、バイクの時よりも応援が心強く、気持ちも暖かくなる。
「おい。374番の選手、すごい怪我だな。」
こういう囁きが聞こえると直ぐに、
「お兄さん、がんばれ!」
という応援が追いかけてきた。
ぼくは、応援の人たちから多少ならず、怪我をしているせいで注目されていた。
こうした応援は、幾度もぼくに送られてきた。
(走りきってみせる。)
覚悟を何度も新たにした。
この日は、比較的涼しくそれが救いだったが、風の強さは相変わらずで、
3キロのスイム・155キロのバイクを終え、7時間もレースを続けてきた体には厳しい風だった。
宮古島のランのコースは、内陸の一本の広い県道(190号線〜78号線)を往復するので、
往路と復路の選手が対面で向い合って走ることになる。
無論、ぼくが走り始めた時点では復路側を走っている選手はいないから、対向車線側の復路は完全に開いている状態だ。
沿道に刺された上りが、風を受けてバタバタと靡いている。
(今はきつい風だが、復路は追い風になるだろう。)
最初の5キロ、時には10キロはとにかく慎重に走る。5時間以上もバイクに乗っていた体は走ることに未だ慣れない状態なので、
暫くは体を走るという行為に馴らさないと、本当の意味での調子を推し量ることは出来ない。
ここで、周りの選手を気にしすぎて無理をすると、走れなくって歩いたりすることになりかねない。
市内を抜けると、広い県道の両脇に何処までも砂糖黍畑が広がる風景になる。
エイドは約2.5キロ毎にあり、これがぼく達の生命線になる。
正に砂漠のオアシスでここで、鋭気を養い、再びコースに出て行く。
2つ目のエイドを過ぎて、少し走れるようになってきた頃、
noriさんに会った。毎年より、少し遅いタイミングだった。
「大丈夫ですか?」
やはり、驚かれた。
「はい。」
心にもないことを言う。
「(ゴールの)会場で、逢いましょう。」
noriさんが言う。
「はい。」
これも無理だろう。友を待つことは出来ない。
終わったら、病院へ直行か体育館で治療を受けた後、数時間点滴だ。
10キロに行く手前では、MOさんと出会って暫く一緒に走った。
MOさんは、ぼくが転倒した時、直ぐ後ろでぼくの転倒を見ていたと言う。
「すごい転倒だったから、もう無理だろうと思ったが、追いついてきましたね。
結構な勢いだ。感心しますよ。」
と驚いた声を上げていた。
「諦められ切れないんですよ。」
ぼくは言った。
カーボパーティの前に25周年記念の寄せ書きに、ぼくは書いた。
「宮古島を走るのが、ぼくの生きている証だ」、と。
この日、この時、生きていることを強く強く感じることが出来る瞬間。
絶対に諦めはしない。
「傷、深いですよ。
消毒はしましたか?」
「いいえ・・。」
「していたら、ここには居ないですよね。
もう傷口が、膿み始めているみたいだ。
終わったら、直ぐに病院に行った方が良い。」
MOさんは、言った。
同じトライアスリートだ。止めろと言ったところで、止めないことは分かるのだろう。
出来る限りの助言をくれた。
ぼくは、見ると走る気力が削がれそうなので、傷に関しては、それを凝視してはいなかった。
但し、本人なのでかすり傷なんてものではないこと位は百も承知だ。
「私に構わず、先に行って下さい。
君は、ランは強いでしょう。」
「はい。」
ぼくは、再び一人になった。
宮古島トライアスロンのランコースは平坦だと言われているが、
バイクと同様で、実際走ってみれば、評判程には楽ではない。
結構アップダウンがあるのだ。但し、今年は折り返し前にあった
坂道はコースから外されて、代わりに宮古島市役所迄、コースが延長されるレイアウトに代わっていた。
だが、今年は別の敵が現れている。
例年、ランは陸路で風の影響を受けにくいのだが、今年は例外で選手の気力・体力を多いに蝕んだ。
トップ選手と最初にすれ違ったのも、ぼくが此処まで順調に来ていないにも関わらず、例年同様の10キロ前後の位置で、
今年の島のコンディションに皆が苦しんでいることを象徴していた。
15キロを過ぎた辺りで、noriさんを通して知り合った明星大学のコーチのSHさんを復路に見つけた。
向こうもこちらに気づいて、お互いに手を上げた。流石だ。速い・・。未だ復路を走る選手はちらほらとしかいない。

最初の10キロは1時間で走ったが、ペースは随分鈍って折り返しに辿りついた時のランスプリットは1時間16分だった。
仮に同じだけ、時間が掛かればゴールは11時間30分を越えてしまう。
3種目の中で十分に練習したと言えるのは、ランだけだった。
それがこの体たらくでは、どうしようもない。
血が止まらず、それと一緒に気力も奪われていくようだった。
ぼく自身もランに地力というか爆発力があるのを認識していて、過去の大会では折り返してからスパートして、
追い上げたことが何回もあった。此処まで、今回もそれを期待していた部分があったのだが・・。
甘かった、と思わざるをえない。十分にランの練習をしてきたからこそ、此処まで走れている。
スパート等出来そうもなかった。
折り返して直ぐに往路にバイク後半で会ったHIさんを見つけた。
(速過ぎるよ。)
こりゃ、抜かれるな、と覚悟した。
案の定、折り返して数キロで、抜かれてしまった。
「私は後半迄、ペースが持たないから、追いついてきて。」
と言われたが、ぼくは最後迄、走れるのか怪しい限りだ。
彼女は速い。後は、彼女自身の為に頑張ってほしい。
この位置から追い上げれば、良い順位でゴール出来る筈だ。
彼女を見送ってからは、とことん自分との戦いになった。

往路にも、復路にも幾多の選手が必死にゴールを目指して走る姿が見える。
正直、一人だったら、とっくにくたばっていると思う。
共にレースを走るライバルであり、仲間である選手達やボランティアの人達がいて、
初めて3キロ、155キロ、42.2キロのスイム・バイク・ランを乗り越えられるんだ。
折り返しを過ぎると、予想通り追い風になった。
往路よりも、全然走りやすい。体は疲れているが、これは多いに疲労を軽減してくれそうだ。
20キロ〜30キロというのは、ゴールには未だ未だ遠く、体の疲れもピークを迎える頃で、
この辺から歩き始める選手が増えてくる。但し、この辺で歩き始める選手は往路で無理をしていることが多いのも事実で、
往路で勢い良く、ぼくを抜いていった選手が歩いていたりするのを良くみる。
そして、ここで逆転。
残念ながら、もう立場が入れ替わることはない。ここで歩くというのは、相当深刻なダメージがあるからだ。
「諦めない」
心の中に炎が灯る。
30キロを超える。ぼくは、残り10キロというところ。
往路に同室のSASAさんを見つける。
疲れているなあ。この時点で10キロ弱か・・。
既にレース開始から、10時間を優に越えている。
4時間弱で30キロ以上、走らないと完走出来ない。
ギリギリか。それとも・・。
その必死の姿に声を掛けるタイミングを失った。
(がんばれ!)
心中で一言、エールを送った。

35キロ地点・・、例年だとゴールを強く意識して、その意識の強さが体の疲れを凌駕するのだが、
今年は相変わらず、「次のエイド迄、歩かない」という以外のことは考えられなかった。
エイドに辿りつけば、水を少し含んで、一緒に塩タブを接種し、コーラを一口だけ飲んだ。
スポンジで頭を冷やして、傷口を洗う。そして、エアーサロンパスを疲労の激しいところに噴射する。
体は傷だらけで、釣りそうな足にエアーサロンパスを掛けるのにも場所を選ばなくてはいけなかったので、
ボランティアに任せず、自分で行った。
「大丈夫ですか?」
「はい・・。」
もう、そう答えるしかない。
「後、7キロ、もうちょっとですよ。」
ボランティアの若い女性が励ましてくれた。
「長いなあ・・。」
ぼくが苦笑いすると、
「がんばって!」
と彼女も苦笑いした。
此処まで来た選手が、しかもこんなとんでもない怪我をした選手にとって、残りの7キロが決してが近くないのだと
いうことを認識した様子だった。

次のエイドは何処だ。
もうそれしか考えていない。
一つでも、エイドを外したら完走はおろか、外したエイドの先、500メートルだって走れはしないだろう。
もうボロボロになって、最後のエイド迄来た。ここはランの40キロ地点である。
残りは2キロ・・。
エイドとエイドの間を繋ぐ様に走って此処まで来た。
次がゴールという名の最大のエイドで、そこでは此処までぼくを散々苦しめてきた傷を癒す薬があり、
水も食べ物もたんまりとあり、何よりも有り余る祝福と休養が、ぼくを待っている。
ぼくは此処までのエイドと同様に入念に、傷を洗い、一口の水と塩タブを取り、200キロ近い距離を走ってきた足に
エアサロンパスを拭いた。足は、エアサロンパスのかけ過ぎで、真白になっていた。
傷は大小、肩から膝まで、左半身に及んでいる。
ゴールするのに血だらけはみっともないので、しっかりと洗っておいた。
2キロなんて、這ってでも進める距離だと思うかもしれない。
実際、最後のエイドは飛ばして少しでもタイムを短縮しようとする選手は多い。
出来るなら、ぼくもそうしたい。だが、無理だ。
ここで体を十分メンテしとかないと、後2キロを走れない。

最後の最後の力を振り絞ってぼくは、走りだした。
時計を見る。残りは11時間18分・・。
11時間30分は切れるか。切れれば、完走だけを追ってきたのではない、という最低限の意地は見せてやれる、と思った。
風に翻弄され続けたきつい只でさえ、厳しいコンディションのレースだった。
前を行く選手の誰もかれもが足取りが重かった。
午後6時を過ぎ、南国の日もようやく傾き、夕焼けに空が燃えていた。
残りが1キロになる。残りは6分を切っていた。
(やれるか・・。)
ぼくは、渾身の力を振り絞って、スパートする。
体の中には、もう余力等、全く残っていない。
気力だけのスパートだ。
前を行く選手が一人、一人、手繰る様に近づいてくる。
(そうだ。順位もタイムも諦めてないぞ。
何一つ、諦めてはいないんだ。
ざまあ、見ろ。)
此処まで、自分を散々苦しめてきた理不尽極まるものに、最後の挑戦状を叩きつける。
沿道では、スタートの時とは比較にならない大群衆が、競技場に戻ってきたぼく達選手を待ち受ける。
『ワッー!ワッー!』という大声援!
遂にぼくは、競技場の正面ゲートを潜った。
ここは、宮古島の人口の大部分が詰めかけているんじゃないか、と毎年思う。
恐らく一万人以上の観衆が応援に駆けつけている。
競技場のトラックを3/4。あと、300メートル。
ぼくは、走った。最後の最後迄、前にいる選手を一人でも抜こうと。
競技場に入って二人抜いていた。
そして、ゴール直前で3人目。
タイムは11時間28分・・。目の前で、29分に変わったが、
満足だ。11時間30分を切った。
ゴールテープを両手で握って天高く突き上げると、ぼくは獣の様に雄叫びを上げた。
「うぉっしゃー!」
勝ち負けで言えば、負けのレースだったろう。
でも、それが全てではない。
自分に克ったレースだった。
(よくやったぞ。よくやったぞ。)
心中で何度も呟いた。

kanki02.jpg

              *
ゴール後は、酷いものだった。
まず傷の治療の為に体育館に行ったが、全身血だらけ・泥だらけで、先にシャワーを浴びてこいと先生が苦笑いしていた。
シャワーを浴びた後に十時間以上、着ていたトライウェアをもう着たくはない、というか今は見たくもないので、
先に荷物を取りに行った。その時、ドリンクと宮古そばのサービスを目にした。
水もレースを思い出すので、少し飲みたくなく、熱いお茶をもらった。
そばは食べたいと思っていたがお茶を飲むのがやっとで、そばは食べられる状態ではなかった。
途中何度も休みながら、シャワー室に辿りつき、シャワーを浴びた。
傷は想像通り酷いもので、低温に調節して体を洗ったが、それでも悲鳴を上げそうだった。
おまけに吐き気迄、してきた。
その後、先生にようやく見てもらった。傷口を消毒して、ガーゼを当ててテープで留める処置を何か所も先生は行った。
お陰で左半身は真白いガーゼで埋め尽くされる様になった。
一番酷かった左肘に関しては、これは縫合した方が良いから、明日宮古病院に行くように、と言われた。
吐き気を訴えると、案の定点滴ということになった。
約2時間点滴を受けた。レース終了1時間前の花火はここで聞いた。
寝ていると、看護婦さんが「すごい怪我ですね。完走したんですか?」と目を丸くしていた。
「はい。」
ぼくは、少し照れた様に笑った。確かに正気の沙汰じゃないよな。
              *
レース会場を後にしたのは、21時発のバスだった。
バスの中で、レース終了の花火が打ち鳴らされるのを聞く。
南国では、もう初夏と言って良い季節か。
空に咲く花火を美しい、とぼくは思った。
              *
ホテルに戻った頃には、点滴を受けたお陰で食欲は少し回復していた。
飯を食い、風呂に行き湯船には入れないものの、シャワーを浴びると少しすっきりしていた。
同室のSASAさんが戻ってきていた。
彼は、完走していた。正門を潜った直後にゲートは閉じられたと言う。
そして、ゴールの時計を見た時、既に14時間で時計は止まっていた。
落胆した。駄目だったか・・。しかし、ゴールで待ち受ける数万人の群衆は彼をおおいに祝福してくれた。
狐に摘まれた様だったという。
そうなのだ。宮古島トライアスロンは制限時間の14時間以内にゲートを潜っていれば、
後は14時間0分0秒扱いで、完走を認めてくれるのだ。感極まった、という。
「諦めずに走ればゴール出来ると言ってくれた、あなたのお陰だ。
もう最後は、それしか考えていなかった。」
父親の様な年齢のSASAさんから、お礼を言われた。
ぼくは照れるしかなかった。
こうして、2009年のレースは終わった。
4月20日(月)
ぼくは、水曜日迄、休みを取っている。明日の最終の飛行機で東京に戻るので、今日はゆっくりしたい。
ところだが・・。バイクの引き取りに加え、病院にも行かないといけない。
それに昨晩はレースの疲れがあるにも関わらず、傷が痛んで良く眠れなかった。

SASAさんとタクシーに乗り、昼前に競技場にバイクを引き取りに行った。
ぼくは宮古病院で下ろしてもらい、SASAさんがぼくの分のバイクもタクシーに乗せ、ホテルに持って帰ってくれた。
ぼくを診察した若い先生は、左の肘を見て、「その日じゃないと縫合は無理ですよ。」
と苦笑した。「大きな傷だから、 縫った方が良いんだがな。時間を掛けて治すしかない。」
どれ位時間が掛かるのか、と聞くと左の肘の下の皮を先生が攫んだ。
卓球玉が十分入る位、だらんと皮が下がって、カンガルーのお腹の様になっていた。
「肉が抉られてなくなっているから、ここの肉が白く盛り上がってくる迄です。
まあ、何時かは治りますよ。」
その後、ぼくを裸にして、傷口を徹底的に洗った。
昨日、応急処置を受けたにも関わらず、未だ泥が傷口から少なからず出てきた。
これは、凄い痛みを伴い、ぼくは奥歯を噛みしめて必死で耐えた。
この先生は、如何にも頭の良さそうな先生で色んなことを教えてくれた。
傷口を消毒するのは、今はもう医療の現場ではやってないそうだ。
応急処置としては、傷口を良く洗い、軟膏を塗り、その上から絆創膏やガーゼを当てるのがベストらしい。
傷口に張りつく脱脂綿はNGだとか、話してくれた。「ここは良い処置だ。」と、ズル剥けた右手の平に関しては、
褒めてくれた。「今後、自分で出来ることはとにかく傷口を良く洗い、傷を乾かさない様にすることだ。」
と説明すると、湯船にも入っていいし(入ることが出来れば、だが。)傷の上から傷を作らなければ、スポーツをしても良い。
とも言った。
「もし、傷口が赤黒くなって熱を持つようならば、東京に帰ってから医者に見せなさい。」
「そんなことになりますか?」
ぼくが不安を口にすると、「分からんよ。」と先生はあっけらかんと言った。
そして、最後に完走したのか?と聞いていた。「した」と答えると、先生は爽やかに笑った。
どういう意味の笑いなのか、不明だった。この後、痛み止めの抗生物質と軟膏をもらって病院を出た。

ホテルに戻る時間はないから、そのままアワードに行った。
知り合いに見つかると、どうしても怪我の話になり、何十回も同じ話をした。
ぼくにアベレージを聞いて転倒の直接の原因になった選手に関しては、
ぼくが転倒後、バイクを止めることなく走り去った為、繰り返されるこのエピソードでは完全な悪役だった。
まあ、レース中のことで気を抜いたこちらも悪いんだが・・。
レース結果は、ぼくは何とか400番台でゴールしており、最低限レースは出来たなと満足した。
ここ3年、タイム・順位とも自己ベストを更新したので、一歩後退した訳ではあるが仕方がない。
noriさんやSHさん達は、もう今日帰ると言う。バイクも東京に送ったと言っていた。
アワードで宮古島の戦友達との楽しい一時を過ごし、彼らと別れてホテルに戻るとようやくレースが終わったんだな、という気がした。
その夜は毎年、この夜に行くビアファスでSASAさんと最後の夜を語らった。

4月21日(火)
午前中にバイクを東京に送り、チェックアウトした。
と言っても、最終の飛行機だし、友達も昨日の内に帰ったか今日の昼間に帰る人が殆どなので、
昼前にSASAさんを見送った後は、ぼくは夕方迄ホテルで近くで過ごすことになった。
ふと思い立って、一昨年行った丸吉食堂にレンタサイクルを借りて行ってみることにした。
何処までも続く砂糖黍畑と美しい海岸線をゆっくりゆっくりと変速機もないシティサイクルで走った。
急な坂は上がるのが、骨折りで押して登ったりした。
携帯に落としてきた音楽を聴きながら、30分も走ると丸吉食道に着いた。
ここでKAさんと会った。元有名な柔道家であるKAさんには、レース以外でもお世話になっているのだが、
今年はレース後迄、お話する機会がなかった。KAさんも今日の最終の東京行きで戻るので、
夕方までは応援に来てくれている奥さんを連れて、東平安名崎に行こうと思うと言う。
「それは良い。綺麗な所ですからね。」
奥さんは、未だ行ったことがないと言っていた。
ここの宮古そばは旨い。レースを振り返って大変だったなあと言うようなことを話しながら、
一昨日を振り返った。何かもう随分時間が経ったような気がしていた。
KAさんと別れた後はえっちらよっちら、ゆっくりゆっくり自転車に乗ってホテルに帰った。
凄くよく晴れた爽やかな日だった。

宮古島を後にしたのは、定刻よりも20分遅れの20時・・。
運よく窓際の席で、離陸の時には去りゆく宮古島の夜景を見下ろすことが出来た。
思えば、大変なレースだった。
あの日、あの時、あそこで果てても良いと迄、思ったレースだった。
一生の内でこんな日が何度あるのか?
熱く熱く燃えた一日だった。
やっぱりトライアスロンは最高だ。又、走るきっと・・。

             *

25回の記念大会である宮古島トライアスロンから、既にもう3週間が経った。
東京の気候もようやく宮古島に追いついてきて、皐月晴れの今日等は初夏を思わせる。。
レース後、一週間は頭痛がして悪寒もするという状態だったが、大会で負った傷は左の肘を残せば癒えた。
来週中には、又、柔道に復帰出来る状態になるだろう。
東京に戻って直ぐに実家の母親に「戻ったよ。」と連絡した。
心配させるまいと「少し転んだだけ」と話した。
「あんた、傍で見ておれんけん、どんなことしよるか分らんけど、怪我したら如何よ。」
と、母親は何かを察したのか、非常に心配そうに言った。
もし、あれを母が見ていたら冗談でなく、気を失っていたのではないだろうか。
つくづくの親不幸者である。
親孝行と言えることは何一つ出来ず、知らないところで危ないことばかりしている。
込み上げてくるもので、声の調子が変わらない内に電話を切った。
今日は、母の日だ。後で又電話してみようと思った。
こんな短期間にぼくから2度も電話があると、少し気味悪がられそうだが・・。
posted by まき88ま at 18:21| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

アイアンマンジャパン 2008

6月20日(金)
アイアンマンジャパンへの出場は、唐突に決まった。
宮古島トライアスロンを終えた後、心身共に飽和した状態の中で、
今年はアイアンマンコリアがないと知った。
海外のアイアンマン出場も思ったが、経済的にも精神的にも
不安材料の少ない国内大会を選択する方が、
無難なのは考えるまでもなかった。
宮古島から戻って、一週間程で多摩川でのバイク練習を再開。
宮古島での悔しさを晴らしたい。
しかし、不安材料はあった。まともに走ることが出来ない。
踵が痛く、開脚屈伸をすることも無理だった。
勿論全力疾走は、出来ない。
だが、ジョグで流すことは出来たし、スイムとバイクは
練習出来るので、棄権しようと言う気は更々なかった。

柔道を始めて以来、そのの稽古で負った怪我が原因で、
トライアスロン競技に支障を来たす事が、度々あった。
しかし、黒帯を締める様になって後は、
大きな怪我をすることがなかったので、
「受身も上達したから、もう怪我はないだろう」
という油断が生まれていたのは、間違いないと思う。
怪我をしたのは、大会の約一月前で、
激しい乱捕りの最中、場外で板敷きに投げ落とされた際、
踵を強かに打ち、骨に皹が入る大怪我になってしまった。
それにしても、大会前の柔道の稽古に関しては、
「大会前は、止めろ」
と皆から言われていたのを、我の強いぼくは、
聞かずに、此れまで続けてきた。
しかし、流石に今回ばかりは、
指で踵を弾いても、悲鳴を上げる痛みだったので、
大会前の2週間は、柔道を完全に休むことにした。
何があるか、分からない。今後は、大会前の稽古は、休みます。
Heeさん、済みません。

5月末で、仕事を辞めたぼくは、
6月の全てをアイアンマンジャパンに注ぎ込んで、生活してきた。
踵の不安を打ち消すには、トレーニングするしかない。
6月に入ってからのトレーニング量は、
スイム・バイクの練習量は、これまでの3・4・5月の練習量を
東京出発の前日時点で越えていた。
ランにしても、速度は出せないながら、
LSD中心に100キロ以上は走っている。
今回のトレーニングでは、
100キロのバイクトレーニングの後に、60〜70分のジョグをする等、
二種目連続のトレーニングを盛り込んだ。
今までは、バイクはバイク。
ランはラン、という感じで二種目連続で行うことは、
なかったが、NIさんから連続でやらないとダメだと言われ、
取り入れる気になった。
それでも、十分にトレーニングしたと言う満足はなかった。
それに、故障した踵を抱えた状態で、
自信のあるレースが出来るとも思う程、楽天家でもない。
だが、悔いのないレースにしようと、それだけは決心していた。

午前6時35分。
かなり早めの集合時間に、ぼくは羽田空港に着いた。
目的地は、アイアンマンジャパンの開催地。
長崎県、五島列島の福江島だ。
今回は、一人参加。
少し寂しいが、飛行機では同じツアーのUEさんと仲良くなり、
色々とお話をしている間に、長崎空港に着いてしまった。
東京は曇りだったが、長崎は雨が降っていた。
長崎空港からは、ツアーの送迎バスで、長崎港迄、50分弱。
それから、五島列島の福江島へはジェットホイルで80分だったか。
長崎から、120キロ。日本本土最西端の島である。

福江島に到着する。この島に来るのは、7年ぶりだ。
2001年。この地で初めて開催されたアイアンマンジャパンに、
ぼくは参加した。
梅雨明け直後の7月20日頃の開催だったと思う。
最高気温 38度。
ぼくの参加したレースの中で最も過酷なレースだった。
酷暑に加え、起伏の激しいフラット面の殆どないバイクコース、
日避けのないランコース。完走率は、80%台の前半で
救急車がビュンビュン走っていた記憶がある。
ハードでタフなレースを戦い抜き、ぼくはこの島で初めて
アイアンマンになったのだ。
7年前のゴールの瞬間が、ぼくにとって一つのゴールだった。
それから7年・・。ぼくは、どれだけ変わることが出来たのか。
目指す目標に対して、どれだけ近づいたのか。知りたかった。

今回の宿泊は、五島コンカナ王国で、
鬼岳温泉を抱えるリゾートホテルだ。
宿泊費とは、別に1日150円の入湯税を払えば、温泉は入り放題だ。
ぼくがチェックインした時、
相部屋の選手は未だ到着していなかった。
部屋の中でうとうとしていたところへ、相部屋のTIさんが到着した。
沖縄から参加のTIさんは、
今回が始めてのアイアンマンとのことだった。
これから、大会期間中、色々お世話になることになった。

17時過ぎの送迎バスに乗り、
TIさんと登録会場である五島文化会館に行く。
選手登録を済ませた後は、カーボパーティに参加した。
三尾野町にある総合体体育館が会場だ。山の上にある。
雨も激しかったので、タクシーを使った。
2001年は、カーボパーティは総合体育館に隣接の中央公園でやったが、2008年は、雨天の為か、体育館でのパーティだ。
未だ新しい大きな体育館である。

カーボパーティでは、コリアでは同宿したこともあるNIさん、
HAさんを始め、宮古島で知り合ったHIさん、SIMさん、
本当に多くの人達と再会した。
懐かしい顔に出会えるのは、大会出場の楽しみの一つである。
人生で最も充実した時間であるトライアスロン大会を
共に戦った人達なので、懐かしさも一塩だ。
パーティでは、地元の特産品中心に地方色が溢れた食事が供された。
2001年は、バイキング形式で、
料理もホテルで作られた高級料理という感じだった。
海外のアイアンマンなんかで出てくるものと大差なく、
初めての大会だけに
「アイアンマン主導で万事、進んでいるのかなあ」
と、思ったものだが、今回はもう8回目の開催になり、
大会自体が地元に根付いてきたのだなあ、と感心した。
パーティの最後には、昨年の大会のビデオ上映があった。
ここのコースが厳しいのは、ぼくも承知なので、
選手の頑張りを見ている内に涙が出てきた。
このビデオに関しては、TIさんも宿に帰ってから、
感激したと感想を漏らしていた。
「あれを見たら、絶対完走したくなった」

パーティが終わると、早々にホテルに帰り、
温泉に浸かると、床に就いた。
22時になってなかった、と思う。
ぼくは、例によって出発前夜殆ど寝ていない。
泥の様に眠った。

6月21日(土)
レース前日になる。
この日は、朝6時位に目が覚めた。
最近夜型の生活が、定着してしまっていたので、
こういう極端な生活パターンの入れ替えをして、
強引に朝方に切り替えないと、早朝起きるのはかなり難しい。
本当は、良くないんだろうけど・・。
朝飯前にバイクの組み立てに行く。

狭い部屋に物が溢れているので、ハードケースは持たない。
ダンボールにエアクッションを使って、梱包したバイクを取り出す。
1時間位掛けバイクを組み立てオイルを挿し、調整を済ませた。
ここで、一つ問題が発生。
サイクルコンピューターを持ってきていなかった。
これは、ぼくの十八番の一つで、本当に良くやる。
次回からは、チェックリストとか作って、
忘れ物チェックをやらないと・・。
前日に発覚したので、エキスポで買うことが出来るが、
無駄な出費だ。

朝ご飯をホテルで済ませた後、
明日のレースの準備は全部やってしまった。
昼前にバイク預託に行くが、
宿に戻った後は直ぐに眠れるようにしておく。
バイク預託の為、送迎バスで、文化会館に向かったのは昼頃だった。
大した距離ではないから、バイクに乗って行っても良いのだが、
朝から雨が激しく、大会前に余り体力を使いたくなかった。
バイク預託に関しては、時間が遅くなれば、
直接スイム会場である富江海岸迄、自走しても良いらしい。。
しかし、車でも45分位掛かるし、帰りを考えると、
市内に宿泊している者にとっては、現実的ではない。
だから、文化会館でバイク預かってくれるんだろうけど・・。
何にせよ、助かる。

バイク預託の後は、五島饂飩で有名な竹酔亭に行った。
TIさんは、月曜日の朝にはもう沖縄に帰ると言う。
生憎の激しい雨だが、観光らしいことが出来るのは、
今日だけだった。
お昼は午後2時迄だったが、ぼく等が店に入ったのは、
それを過ぎていた。
でも、東京からだと言うと、快く食事を出してくれた。
五島饂飩は、麺がかなり細く、四国出身で手打ちの太い饂飩に
慣れているぼくから、見ると素麺に近い感覚だ。
少し薄味の透き通ったスープは、田舎を思い出す。

宿に戻ると、6時には夕食を取った。昼飯と感覚が短いが、
旅先では良く入るもので、一杯食べた。
温泉に入り、20時前には就寝。
夜中何度か目が覚めたが、枕を半分に折り高枕にすると、
その後は良く眠れた。

6月22日(日)
いよいよ、レース当日になる。
レース前としては、珍しく熟睡出来た。
踵の故障等、不安はあったが、「出来るだけのこと」をやるのみだ。
TIさんとは、大会会場にバスが着いて、直ぐに分かれた。
準備には、お互いのペースがある。
そして、ゴール後迄、会えなかった。
レース前の時点では、小雨が降っていたが、
予報では雨は止む予報だった。
1日ずれて、本当に良かった。
昨日の様な激しい雨だと相当しんどいレースになったと思うからだ。
会場入りしたのは、5時30分頃だったが、
準備をしていると、瞬く間に時は過ぎる。
スタート直前、海に入った。
入水直後に感じたが、水が極端に冷たい。
6月開催の大会には2〜3度出たことはあったが、
今回が断トツで冷たい。
寒い寒いと聞いてはいたが、それは5月開催の時の話で、
開催時期が6月になってからは、
驚く程冷たい訳ではないと思っていた。
だが、最初に入った時には、寒すぎて心停止するかと思った程だ。
スタートライン迄、懸命に平泳ぎをして、体温を上げた。
アイアンマンジャパンのスタートは、フローティングスタートだ。
沖合いから泳ぎ始める。普通は号砲迄、立ち泳ぎで数分待つ。
だが、ぼくがスタートライン迄、泳ぎ着くと直ぐに、
スタートの号砲が成った。
午前7時2分。エリート選手のスタートから2分後だ。

レースが始まった。無数の水飛沫が、水面を舞う。
泳ぎ始めると、水の冷たさには、段々に感じなくなってきた。
身体が温まってくると同時に、
腕を覆ったアームカバーも威力を発揮していた。
これは準備しておいて良かった、と本当に思う。
アームカバーのお陰で、露出しているのは、肩周りだけだ。

アイアンマンジャパンのスイムコースは、
沖に一直線に出て折り返してくるワンウェイコースである。
3角形にコースを回る宮古島とかと比較して、
バトルは起こりにくい筈だ。
それでも、ぼくはスイムに関しては何時も最大公約数にいるので、
どうしてもバトルから、逃れられない。
だけど、余りバトルを嫌って大回りしたり逃げたりすると、
タイムがどんどん遅くなってしまう。
これは、後ろから出ても前から出ても同じ様に思う。
今回も後方から出たが、タイムロスに繋がった。

2001年のスイムのタイムだけは、上回りたい。
全種目において、2001年を上回るのは、今回の至上命題だ。
後方からスタートすると、余り抜かれることはないが、
ぼく自身の泳力も無いため、先行する選手を捉えるのも苦労する。
抜いたり、抜かれたり、
同じような面子がグループになってレースは展開した。
全体的に波もなく、泳ぎやすい海だった。
コースロープはしっかりと張られていて、
これなら、ミスコースをする恐れはない。

折り返し地点付近迄来る。
ここだけは、潮流が厳しかったが、
折り返してしまえば、又穏やかな海に戻った。
1周回目が終わる頃になって、
左腕の腋下が、随分擦れているのが気になり始めた。
新着のアームカバーのせいなのか、
ワセリンの塗りこみが足りなかったのか。
ぼくは泳ぎながら、左腕のアームカバーの位置を少しずらした。
途端に冷水が流れ込んでくる。驚くような冷たさであった。

一周回目をようやく終え、一度砂浜に上がる。
給水では、熱いお茶迄、用意してあった。
「寒い。」と、思わず言葉が漏れる。
熱いお茶を飲むと、お茶が身体を流れていくのを感じた。
一瞬の小休止。その直後再び、ぼくは冷水の中に飛び込んでゆく。

二周回目が始まる。左の腋下は擦れてかなり痛みがあったが、
水の冷たさに凍えるよりはと思い、
可能な限りアームカバーは引き上げた。
1周回目を終えた時点で、タイムは40分を超えていた。
スイムのタイム。80分は切りたい。
2週回目は、一周目の慣れがあり、コースロープに近い所を回って
なるべくタイムロスを減らそうと努力した。
スイムに関しては、6月になって殆ど毎日の様にプールに通って、
準備した。
4月からの課題としていた新泳法を殆ど身に付けた積りでいた。
腕を十分にストレッチして伸ばし、水面の浅い所で水をキャッチし、
前に前に進んでゆく泳ぎ・・。フィニッシュは意識しない。
大きなストロークで、腕の回転数よりも、
一掻きで進むことの出来る距離にポイントを置く。
確かに、以前と比べて疲労は減った。これは、収穫だ。
でも、スピードは、余り変わっていない気がする。

2周目の折り返しを超える。
後は、戻るだけだ。
この海は本当に寒かったから、早くバイクに移りたかった。
折り返しを越えて暫くしたころ、
突然接近してきた選手の肘打ちを顔面に食らう。
ゴーグルがずれて、水が入ってきた。
慌てて立ち泳ぎになり、ゴーグルから水を出す。
ぼくに肘打ちをくれた選手は、前方遠くにいた。
正直、力任せの余り綺麗な泳ぎではない。
スイム後半で、ああいう選手と同じ場所を泳いでいることからして、
ぼくのスイムの実力が、未だ未だという証の様に思えた。

砂浜が近くなり、実況のアナウンスが耳に入るようになってくる。
足が着く位になっても、もう暫く泳ぐ。
手に砂が触れた。
瞬間、ぼくは立ち上がって砂浜を走り出した。
80分を超えていた。
2001年のアイアンマンより、3分遅いタイムだった。
多少凹むが、今は気にしてられない。
このレース最大の難関であるバイクに移る。

砂浜を走りながら、ウェットスーツを脱ぐ。
シャワーを浴びている時には、もうウェットは腋に抱えている。
サポーターからトランジションバッグをもらうと、
更衣所に飛び込み、ヘルメットを被りグラスを掛ける。
ソックス・バイクシューズを履くと、
ウェットスーツを入れたトランジションバッグを
今度は、サポーターに渡し、バイクラックに走る。
バイクをラックから外すと、
片手でサドルを押しながら、スタートライン迄走る。
雨はこの時点でもう降っていないが、
空は厚い雲が覆ってあり、日焼け止めは塗らなかった。

今回は目標の一つとしてトランジションタイムの短縮を、
考えていた。トランジションタイムは、結構馬鹿にならない。
スイム→バイク・バイク→ランのトランジションタイムの合計が、
10分以上になっている選手は少なく無いと思う。
ぼくも、その一人だった。
それにしても、アイアンマンシリーズでは、
ボランティアがトランジションタイムの短縮に良く協力してくれるので、助かる。

goto-bike-2008.JPG

バイクスタートする。
五島のバイクコースは、2001年と比較して工夫が加えられ、
以前より走りやすいコースになっていると聞いていた。
しかしそれでも、アイアンマンシリーズ中、
屈指の難コースであることは間違いない。
ぼくは、スイムでの疲れは殆どなく、快調にバイクスタートした。
今回は踵の不調もあり、ランの練習が十分に出来なかった分、
バイクのトレーニングには、力を入れてきた。
6時間・・。このタイムで走りきりたい。

まずは、富江町から、旧福江市街を目指す。
市の中心部を抜け、ゴール地点である五島高校(石田城跡)
の横を走っていく。
又8時間後、今度はフィニッシュでここに戻ってくる。
今は、遠い未来の話に思えるが・・。

走り始めて、30キロ。
鬼岳に差し掛かかる。
山肌が芝生に覆われた美しい流線型の臼状の火山だ。
ぼくの止まっているコンカナ王国は鬼岳の麓にあるが、
此れまで、霧が深くて間近にいるのに、
見ることが出来なかった。
ここで、7年振りにその姿を拝んだ。
トライアスロンのバイクコースは、
宮古島にせよ、海外のアイアンマンにせよ、
車を追い出した風光明媚なコースをこれでもか、と走らせてくれる。
これは、贅沢な幸せだと思う。

起伏の激しいコースが続く。
それにしても、アイアンマンジャパン出場選手の
レベルの高さには、驚いてしまう。
バイクのトーレーニングは十分にしてきたつもりだが、
ぼくの周囲を走る顔ぶれは、ほぼ固定されていて、
極端に早い選手に抜かれることも少ないが、
前を行く選手を抜くことも少なかった。
バイクの場合は、自転車のロードレースでも同様だが、
登りに強い選手(クライマー)、平地に強い選手(スプリンター)、
下りに強い選手(ダウンヒラー)、万能型(オールラウンダー)と脚質によって、走りに違いが見られる。
尚、ドラフティング禁止のアイアンマンでは、
風に強いという特性も加えるべきだろう。
そして、選手個個の個性を武器にしたレースが展開される。
登りに弱い選手を登りで抜いても、下りで追いつかれる。
登りで早い選手に抜かれても、平地で追いつくという具合に、
結局、抜きつ抜かれつ、決まった面子と最初から最後迄、
走っていることが多い。
例外は女性選手。脚力がなく、バイクが苦手という選手が多い。
女子の場合は一度抜けば、
バイクパート中に抜き返されるということは、殆どない。
時々、もの凄くバイクの早い女子選手もいるが、数は少ない。
恐らく、もの凄い練習量をこなしているのだろうと思う。
但し、アイアンマンに出場するレベルの女子はスイム・ランが強い
場合が多く、バイクで抜いても、ランで抜き返されることもある。

翁頭山を左に見ながら50キロを過ぎると、
間も無く周回コースの起点である二本楠交差点に至る。
玉之浦、三井楽、岐宿町を巡るこのループは二周回。160キロ迄続く。
2001年は、確か玉之浦迄は行かず、3周回。
170キロ地点迄、ループが続いた様に記憶している。
何にせよ、ここはアップダウンの激しい地獄のループだった
記憶がある。

気温は低い状態が保たれ、走りやすかった。
坂の多いコースだから、体温上昇を防いでくれるのは、嬉しい。
晴れていたら、エイドの度に水をもらい、
身体中に水を掛け、必死で身体を冷やさなければいけないが、
今回はそれがない。
何時もトラブルを起こす内臓の方も、比較的落ち着いていて、
1時間毎にカーボショッツを取ることが、出来ていた。
汗の量は、通常のアイアンマンよりも少なめだったが、
起伏の激しい坂を登り、
汗をかいた後は、必ず塩タブを取るようにした。

周回コースの最南端は、
玉之浦町の大宝で1周回目は65キロ地点といったところか。
周回の中でも、中須から大宝までの区間は飛ばせる区間で、
快適にはしった。
但し、今日は気温が低いが風が強い。
風に関しては、ぼくも相当苦手だったのだが、
毎週毎週、多摩川で練習している間に随分と強風に慣れた。
宮古島も風は吹くし・・。
レース後に聞いた他の選手の意見では、
この風には、辟易したというのが多かった。
つまり、この風はぼくの味方だった。

80キロ・90キロと起伏のあるコースが続く。
特に難所だったのは、ループの一周目終盤から、
2週目の前半で、100〜120キロ辺り。
厳しい山道が続いた。
ループに関しては、終了地点間際のイメージが良くない為、
2周回目に入るとき、「もう一回か・・。」と重い気持ちになる。
加えて、エリートのトップ選手で二周回目を終えた選手が、
真後ろ迄、迫っていた。
レース開始から、5時間以上が経過している。
トップと50キロ近い差が出来ているのか、と考えると辛かった。

一周終了の確認の為の輪ゴムを腕に通してもらい、2周回目に入る。
五島のバイクコースの厳しさで、この二周回目では、
序盤に元気良く、飛び出した選手の多くが、ペースダウンしていた。
これは、経験の差だ。
一度、このバイクコースを走っているぼくは、十分に用心していた。
110キロ地点。例によって、胃がムカムカし始める。
脱水の兆候が出てきた。少し、腹に水が溜まる感じもする。
不本意ながら、胃薬を飲んだ。これは、効いた気がする。

時間が過ぎてゆく。
レース前、75分でスイム、
6時間15分(トランジション含む)でバイクを終え、
7時間30分でランに移りたいと、ぼくは考えていた。
しかし、実際にはスイムは85分以上掛かっている。
バイクで、何処迄取り返せるか・・。
ゴールは未だか、未だかと思いながら、辛いコースを走る。
2週目の周回を終え、2本の輪ゴムを通してもらった時には、
既にレース開始から、7時間を越えていた。

2001年は、ループを終了したら、後は10キロだった。
瞬く間にバイクフィニッシュの中央公園に到着した記憶があるが、
今回は未だ20キロある。しかも、きつい登りを含んだコースだ。
周回を終えて、暫く一人だった。
このレース始まって、初めて前後に一人の選手も見えなくなり、
「大丈夫か?俺!」
と、思ったが、バイクフィニッシュが近づくにつれ、
先行する選手を一人、又一人と見つけ、交わしていった。
バイク終盤の数キロは、ランの序盤と重なっている。
既にランスタートしている選手が、コースの半分を走っていた。
大分、焦る。もう8時間を超えていた。

遂にバイクフィニッシュの時が来る。
「減速!減速!」
フィニッシュラインの手前で声が掛かる。
バイクから、飛び降りて、サポーターにバイクを渡す。
すると、ぼくのトランジションバッグを持っていた
別のサポーターがすかさず、それを、ぼくに渡してくれる。
再び、更衣所に飛び込む。
ソックスを換え、バイクシューズをランシューズに履きかえる。
グラスは取った。キャップを被ると、今度は日焼け止めを塗った。
バイクパートで少し、日が差す瞬間があった為だ。

此れまでのレースで恐らく一番短いトランジションタイムを終えて、
走り始めたのは、8時間5分前後・・。
最低でも、と思っていた11時間代でゴールするには、
3時間50分台で、42キロを走らなければいけない。
どうなるのか・・。
レース前から、最大の懸案であった踵の怪我・・。
「出来るだけのことは、する」
そう思って、ランコースに飛び出した。

goto-run-2008.JPG

ランのコースも、バイクと同様の周回コースになっている。
今度は鬼岳を周回する。
2001年のランは、ひたすら暑かった記憶がある。
特に空港周辺の日よけのないコースが長かったのが、辛かった。
今回は、中央公園の周辺を7〜8キロ走った後で、
周回に入るコースレイアウトになっていて、
福江空港周辺も一度しか走らない。
今回は曇りなので、日除けはあってもなくても関係ないが・・。

踵の痛みは予想通りでバイク終了直後は、随分踵に違和感を感じた。
踵部分にボールでも入っているようで、バランスを取りづらい。
少し、早く走ると裸足でアスファルトの上を走っている様な
痛みを感じる。
散々だった。それでも、何とか1時間−10キロは死守しようと思った。
早くは走れないので、出来る限りエイドでの補給の時間を短くしようと思った。
今日は、涼しい。
一々、エイドで立ち止まって、水を被る必要はない。

最初の1時間は10キロ走れたが、2時間経過地点では19キロだった。
次の1時間も9キロは、走ろうと決心して時計と睨めっこする。
これでも、4時間30分位のペースだと思うが、
バイクパートで抜いた女子選手にかなり追いつかれた。
今のぼくのタイムは、女子ならばハワイ出場の当落線なので、彼女らの気迫が凄まじい。
今日は、速度を上げるのは無理だ。黙って、見送るしかなかった。

加えて、内臓の調子も悪くなり、
吐かずに最後迄、行けるのかとそんな心配もしていた。
20キロ手前のエイドで、
補給用に持っていたパワージェルをサポーターに渡した。
「今、腹に入れたら吐くかも・・・。」
と思ったからだ。但し、残りの距離は後半分だから、仮に吐いてもその方が楽かとも思うが・・。
暫くして、21キロ・・。
半分を超えたが、看板が立っているだけである。
このコースでは、周回の節目である武家屋敷通りの
チェックポイントの方が重要であった。
午後5時過ぎに、ぼくは一周目を終えた。
サポーターが蛍光リングを腕に嵌めてくれる。
「日のある内に戻ってくるさ。」
心の中で思った。
現在、23キロ地点。残りは19キロである。

エイドでは、最初はこれまでの大会の様にコーラを一口飲んだ後、
嗽をするというパターンだったが、今回は途中でコーラを止め、
オレンジを一切れ食べるというのに、変えてみた。
オレンジに変えても、体調に変化が無いため、
糖質の摂取の点でも有利だろうと思い、
今回はオレンジばかり食べていたが、
それも30キロを過ぎるとオレンジを口に入れるのが、
気持ち悪くなってきた。
こんなだったら、
オレンジとコーラを交代で喰えば良かったと、思った。
そして、又、コーラー中心の補給に戻した。

ラン前半、かなり抜かれてばかりで凹んだが、
30キロ地点を越えると、遅れる選手が増え始めた。
周りを走る選手の顔という顔に疲労の色が滲み出ている。
ぼくは、どうだったか。
速度は上げられないが、疲労しているのとは、ちょっと違った。
宮古島のことがあり、「吐く」ことで身体が楽になり、
あの時の様な快走が出来るのでは、と考えたりしていた。
しかし、吐いて気分が良くなって、速くなるなんておかしい。
吐かなくても、内臓の調子さえ戻れば、同じことが出来る筈だ。
30キロを過ぎ、残り10キロという辺りでぼくは、賭けに出た。
序々にペースアップを始めたのだ。
脚を速く動かそうとしても、
既に遅いペースで、凍りついた脚は中々速くは進まない。
そこで、腕振りでペースアップの切欠を掴もうとした。
調子が良いときと同じ様に腕を振る。
そうすると、不思議なことに内臓のムカつきが収まってきた。
一時は、ボーッとして眠かった頭が、スーっとしてきた。
ペースは段々と上がってきた。

35キロ地点を過ぎる。
踵の痛みもあり、驚くような速い速度ではないものの、
快調なペースになった。
前を行く選手を次々に追い越して行く。
遅ればせながら、やっと調子が出てきた。
しかし、遅きに過ぎたか。
残り5キロ。37キロ地点に達した頃には、もう12時間を過ぎていた。

チクショウ!
大会前に目標にしていた最低ラインも超えてしまった。
毎度、毎度、内容にも結果にも満足したと言う風には、
ならないもんだ。

40キロ手前。
ぼくは、快調だ。
前を行く選手を次ぎ次ぎに抜いた。
その時、後ろから一人。
ぼく以上のペースで追い上げてきた若い選手がいる。
脹脛に記されたナンバーでカテゴリが分かる。
ぼくより、一つ若いカテゴリの青年だ。
彼は、難なくぼくの前に出た。
もう残り2キロ。
(お互い勝っても負けても、
おいしい相手じゃないが、付き合ってもらおうか。)
ぼくは、彼の後ろにぴったり付いた。
彼とぼくは、1500メートル走の様なペースで、
旧福江市街を疾走した。
市街地に入ると、応援が途切れない。
その応援が力となり、気持ちが切れなかった。

残り1キロ。勝負だ。
彼と並び、そして前に出た。
「がんばりましょう。」
彼を抜くとき、声を掛けた。
彼も、ぼくの加速に対応しようとしたが、
ぼくは実は短い距離の方が強い。
みるみる引き離した。
未だ明るい福江市街に、
『アイアンマンジャパン』のネオンが光っている。
その角を曲がると、フィニッシュの石田城(五島高校)だ。

ぼくは、堀に掛けられた橋を渡り、大手門を潜った。
歓声に迎えられる。
城の中に入ってからも、視界にあった選手は全部抜いた様に思う。
それ位、体力は余っていた。
練習は、やはり練習しただけのものを、
ぼくの身体に与えていたのだ。
2ヶ月前の宮古島と打って変わって、
競り合いを制し、ゴールテープを切った。

goto-fin-2008.JPG

12時間30分・・。
踵の故障等、大会前は完走出来るのか心配だったが、
やるだけのことは、やった。
サポーターが、メダルを掛けてくれた。
腕に嵌められた蛍光リングに、
「これ、必要なかった。」
ぼくは、呟いた。
日本最西端。未だ空は、明るい。
だが、日没迄、もう時間は殆どないだろう。

完走後の体調は良好で、マッサージを受け、
念のために点滴を受けたが、元気そのもので、
配られていた五島饂飩を食べることさえ、出来た。
心配していた踵は痛まなかった。
これは、とても珍しいことである。
大抵、フィニッシュした後、
その日は何も食べられないことばかりだったから。
ホテルに戻りレストランで食事を終えて部屋に戻ると、
TIさんも部屋に戻っていた。
先に温泉に浸かった様で、さっぱりしていた。
彼も制限時間迄、20分以上残してフィニッシュしていた。
アイアンマンジャパンは、厳しい大会だ。
コースレイアウトの過酷さに加え、
海外のアイアンマンが全て17時間の制限時間なのに、
15時間しか選手には、与えられていない。
14時間台で戻れば、海外大会では真ん中辺りの順位なのだ。
初アイアンマンで、ジャパンを完走したのは、見事だと思う。

その夜、ぼくは一人で温泉に浸かった。
この一月のことが、走馬灯の様に心を過ぎった。
今年もハワイは、行けなかった。
でも、来年こそは・・。
すっきりした気持ちだった。
疲れてはいたが、気持ちは既に次の目標に向かっていた。

6月23日(月)
大会翌日。ゆっくりしたいが、結構忙しい。
TIさんは、今日9時の飛行機で福岡経由で那覇に帰る。
ぼくは、明日の帰りなので、寝ていても良かったが、
身体が疲れすぎて、寝ようと思っても、それ程眠れるものでもない。

午前7時に一緒にバイクの引き取りに行った。
その後、彼はバイクの梱包。ぼくは、洗濯。
TIさんは梱包を終えると、朝食に行こうと洗濯中のぼくを
誘いに来た。彼は8時20分にはホテルを出るので、
もう15分位しかなかったが、最後の時間を一緒に過ごした。
大変だったが、充実した時間を共に過ごした友との別れは寂しいが、
又、世界の何処かのアイアンマンで会えるだろう。
「五島でアイアンマンになれた。」
彼は晴れやかな表情で去って行った。

ぼくも午前中にバイクの梱包を済ませた。
午後からは、NIさんとHAさんが鬼岳温泉に浸かりに
ホテルにやってきた。
今回のアイアンマンジャパンは非常にハイレベルで、
コリアで表彰台の常連だった知り合いの中で、
ハワイへの切符を掴んだ人は、誰もいなかった。
ぼく自身の順位も完走者中、真ん中位でタイムから考えて、
もっともっと上の順位だと思っていただけに意外だった。
アイアンマンコリアがなくなり、
宮古島と同日開催で出場を躊躇してしまう
アイアンマンチャイナを除けば、
日本人にとって、アイアンマンジャパンが唯一の
『ROAD TO KONA』になった。
文字通り、頂上決戦のレースだったということだろう。

ぼくらのカテゴリでは、ハワイに行けるのは上位5人。
コリアでは、7〜8の枠があった。
しかも、開催時期が8月末ということもあり、
上位選手の中には既にハワイ行きの資格を
持っている選手も少なくないので、
カテゴリ10位位でも十分に望みがあった。
しかし、今回は状況が全く違う。きっちり上位5人で打ち止めだ。
タイムももの凄かった。9時間30分を切らないと、ダメ。
コリアでは、カテゴリ1位のタイムが9時間50分位で、
11時間台でも、ハワイに行けた選手を知っている。
「状況が、全然違うからなあ。
でも、これで目標が見えた。」
今回は、脚の故障で、思うように走れなかったNIさんが、
すっきりした表情で言う。
だが、ぼく自身は正直言って、どんなに練習しても、
9時間30分でゴールなんて出来ない。
宮古島と同日開催のアイアンマンチャイナでは、
10時間50分台の選手がハワイのクオリファイを掴んでいる。
ぼくが、見えた目標は11時間を切ることだ。
残念ながら、その場所はコリアがなくなり、
超人レースになってしまったアイアンマンジャパンではないだろう。

NIさん達と別れた後、アワードに出席した。
誰かしら知り合いがいるだろう、と思っていたのだが、
誰も知り合いがいない。
こんなことは、之までなかった。一人で、アワードを過ごした。
ホテルに戻っても、一人。最後にもう一度、温泉に行く。
昨日迄と打って変わって、温泉にも人が殆どいなかった。
露天風呂に出ると、この旅で初め見る満天の星空。
「終わったんだなあ。」
静かに夜が更けてゆく。

6月23日(火)
いよいよ、今日東京に帰る。
5日間、お世話になったコンカナ王国を8時30分に出て、福江港へ。
港では、宮古島以来の知り合いであるHIさんと会う。
同じツアーだが宿が違ったので、今回はこれまで余り話せなかった。
今年の宮古島DVDのヒロインだった彼女は、
今回初アイアンマンだったが、
スイムとランは、ぼくより早く良タイムでゴールしていた。
うかうかしてられないね。
ジェットホイルで長崎に、
渡った後は、HIさんと同宿だったNAさん達と4人で、
長崎ちゃんぽんで、昼食を取った。

ゆっくりしている間に、HIさんの大阪行きの飛行機の
出発時間が近づいて・・。
大慌てで、急行バスで空港に向かうことになった。
長崎空港に到着したのは、何と出発15分前。
バスから、ぼくはHIさんの荷物を抱えて、空港迄走った。
何とか、飛行機に間に合った。
「来年、又宮古島で!」

ぼくとNAさんは、その1時間余り後、長崎を後にした。
NAさんも初出場組の一人で、今回のアイアンマンジャパンで、
すっかりトライアスロンに嵌った様だった。
「12時間台で走れるように、頑張る」そう言っていた。
ぼくも2001年に、アイアンマンジャパンに初めて出た時は、
今回のぼく自身のフィニッシュタイムを
理想にしていたのを思い出した。
でも、今はそれでは、納得出来ない。ぼくの挑戦は続く。
ぼく達を乗せた飛行機は、雨が止みすっきり晴れた長崎から、
一路羽田を目指した。
posted by まき88ま at 00:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月24日

2008 宮古島トライアスロン

2008-miyako-goal.JPG

4/20 午後5時58分・・。
 午後6時直前に、ぼくは宮古島市総合陸上競技場に戻ってき
た。残すは、トラックを3/4周。300mだった。10時間代でゴー
ルする。完全にハンガーノックに陥ったボロボロの身体に蝋燭
が燃え尽きる前の炎を点して、トラックを走る。
 58分30秒、40秒、50秒、59分、10秒、20秒、刻一刻と時間が
過ぎてゆく。競技場に入った時、米粒の様に見えていた前を行
く選手が大きくなってくる。30秒、40秒、ゴールは目の前だ。
後20m、10m、5m・・。しかし、後ほんの数mのところで、時
計は11時間を過ぎた。先行した選手にも、ほんの僅か及ばず、
無理して彼との差を詰めたせいで、ゴールテープを彼が切った
後、ボランティアは、ぼくの為のゴールテープを準備する時間
がなかった。自己ベストの記録にも関わらず、ゴールテープす
ら切ることが出来ないゴールだった。
 残念だった。7回目の宮古島で初めて、11時間を切るチャン
スだったんだ。ほんの数秒及ばなかった。ゴール後、ぼくは倒
れた。12キロ過ぎで2回戻した。水分もエネルギーも補給出来
なかった肉体はとうに限界を超えていた。
 計時のリストバンドを自分で計器に当てる事は出来ず、ボラ
ンティアがリストバンドを切って、計時してくれた。フィニッ
シャーTシャツに刻まれた順位は399位だったが、自分で計時
をしなかった為かと思われるが、翌日にもらった正式記録は400
位になった。無理に無理を重ね、必死で頑張ったのに後一歩及
ばず、何も手に出来なかった敗北感で一杯だった。
「ダメだ。早く車椅子を・・。」
「病院に・・。」
 朦朧とする意識の中で遠くに声が聞こえた。
             *
4月18日(金)
 例年と比較すると遥かに長い睡眠時間(5時間弱)を取り、
世田谷区桜丘の部屋を出た。羽田空港に着いたのは、那覇行き
の飛行機の出発する30分前の午前9時50分だったが、飛行機が
天候不良の為、30分程遅れていたので比較的ゆっくりと、飛行
機に乗ることが出来た。今年も例年の様に高校教師のnoriさん
が相方だ。
 那覇に着くと、羽田−那覇間が遅れていた煽りを食って遅れ
ていた那覇−宮古島間の飛行機に直ぐに乗り継ぎ、午後3時前
に宮古島に到着した。
             *
 台湾に近い亜熱帯の宮古島は東京と比較すると、遥かに暖か
かったが、例年程ではなく、少し涼しく感じた。天気は、申し
分のない快晴。天気予報によると、この好天、月曜日迄続くと
言う。嬉しかった。
 今年も例年の様に常宿にしているブリーズベイマリーナに逗
留する。ホテルで荷物を預けた後、カーボパーティに参加する
為に、宮古島市総合体育館に向かった。毎年、年に一度此処で
再開する人たちがいる。懐かしい顔に会えるのは嬉しい。偉い
人の話の後、たらふく宮古島の海の幸、山の幸を満喫した。
 今年はハーツグロウが、ライブをやってくれた。ぼくとして
は、人気絶頂だったD-51の時より盛り上がった。ファンにな
った。そして、今年はスターターが何と小泉前首相だと言う。
ちょっと、びっくりだ。
             *
 カーボパーティを終えると、早々にホテルに戻り、10時30分
には就寝した。来島初日は、前日が寝不足のことが多い為、何
時に床についても直ぐに寝れる。ぼくも眠かったが、前日の睡
眠時間が一時間半だというnoriさんは本当に眠かったろうと思
う。
4月19日(土) 
 大会前日になる。起床は午前6時30分。大会の日は4時起きな
ので、ここで朝寝坊をすると、リズムを作ることが出来ない。7
時には、朝食に行き、バイキング形式の朝食で満腹になる。普
段、殆ど朝食を取らないのに、びっくりする食欲だ。 朝食後
、バイクの組み立てをした。バイクの預託会場は、東急のプラ
イベートビーチである与那覇前浜で、午後5時迄。昼食もホテ
ルで取ったぼく達は、昼過ぎに東急に向かった。今年のnoriさ
んは、月曜日帰りでレース後に殆ど時間がないから、先に市内
で土産物を買いたいと言う。
 市内を散策しながら、ぼくも土産物を買った。色々と立ち寄
ったがその中に、という珊瑚や貝でアクセサリーを作っている
お店があった。noriさんは、ここの常連で何点か、アクセサリ
ーを求めていた。ぼくは、本来土産を買う予定がなかった為、
手持ちがなく、レース後に又寄れたらいいな、と思った。この
場所が、ゴール迄、後2キロの場所だと言う。
「午後5時位には、ここを通ります。5時30分を超えるようなら
、嘘つきで良いよ。」と、言って自分にハッパを掛けた。店の
女性は、ぼくとnoriさんのゼッケン番号を控えていた。
 前浜ビーチに着いたのは、午後4時を随分過ぎた頃だった。
自転車を預けると、前浜では泳ぐ時間が殆どなく、ホテルに戻
って、ホテルのプライベートビーチで少し泳ぐことにした。
 ぼくは、宮古島大会前にスイムのホームの見直しをしていた
。腕を十分に伸ばしストレッチして泡を良く切った後、肘を立
てて水をかく効率重視のフォームを目指していた。スイム練習
の後、身体が疲れなくなった実感はあり、フォームの改造が成
功しているのだと感じてはいたが、宮古島で二桁のスイムラッ
プを持つ、noriさんにぼくのフォームを確認してもらって、自
信を深めたかった。
 幾つか指摘をもらったが、ぼくのフォーム矯正は概ね間違っ
てなかったらしく、「去年とは全然違う」と言ってもらえた。
但し、速く泳ごうとしては駄目だと言われた。フォームが乱れ
て、余計に遅くなるからと・・。
 夕方、ビーチから上がると随分寒かった。軽く身体を乾かし
て、直ぐに食事へ。予約は18時15分だ。夕食は可能な限り早く
済ませ、早めに就寝しなければいけない。
 この日は三食共にバイキングだった。昨日のカーボパーティ
から、4食連続の食べ放題だ。適量で止めておくべきなのに、
来島迄、ダイエットして体重を4キロ程落としている。軽量の
終わったボクサー様に食欲が解放されていた。言葉を取り違え
たカーボローディングが、明日ぼくに仇をなすこと位、この時
点で気付くべきではあった。レースの後話したことだが、
noriさんは、ぼくの
「食べ過ぎ」を注意しようかどうか迷っていたらしい。
風呂から出ても、満腹感が解消せず、
胃薬でも飲もうかと真剣に悩んだ程だった。
 就寝は午後9時30分。後は、なるようになるしかない。
4/20(日)
 遂に大会当日がやってきた。恐らく、宮古島大会前の練習と
しては、今回が一番やっていた。2月中旬に東京マラソンがあ
った為、11月の河口湖から、OFFの期間を余り明けずに年明け
から走っていたし、ロードバイクにも、3月に入ってからは毎
週乗っていた。スイムのフォーム矯正も良い方向に行ってくれ
る筈だ。
 大会前夜が余り眠れないのは、毎度の事、何度かまどろみ、
目が覚めということを繰り返しながら朝を迎えた。起床は、4
時前だった。準備は、昨夜の内に行っている。朝食に向かうが
、此処に来てはじめて、余り食欲がなかった。これまでのレー
スでも内臓のことでは何度も嫌な目をしているので、食事量は
意識して抑えたが、少しお腹が緩い感じは否めなかった。宮古
島入りしてからが、食いすぎなのだ。
 スイム会場の与那覇前浜(東急リゾート)に着いたのは、午
前5時30分頃だった。最終の選手登録を済ませ、スタートを待
つ。今回はスタートは午前7時。例年よりも、30分スタートが
早くなった。スタート会場では、更に多くの知り合いの人に出
会う。「よし、今年も頑張るぞ!」
              *
 午前7時30分。小泉元首相による大会開始の号砲が鳴り響く。
ぼくは、例年よりも前の位置からスタート。例年バトルを避け
ようと外側後方からスタートしているが、結局タイムロスの原
因になっていた様な気がしたからだ。
 今年の前浜ビーチは殆ど波もなく泳ぎやすかった。これでは
、殆どの選手が良いタイムでスイムアップするだろうな、と思
いながら、ぼくはリラックスし過ぎるほどリラックスしてゆっ
くりと泳いだ。ゆっくり、大きく腕を伸ばし泡を切り、腕をス
トレッチした後、肘を立てて水を掻く。
 案の定、バトルは激しかった。後で、知った結果だが、スイ
ムタイム45分から1時間5分の20分の間に1200人もいる。5分の
違いで、何百人も平気で順位が違うのだ。泳ぎにくいことこの
上なかった。但し、海の透明度は流石で、海底付近を泳いでい
る熱帯魚がはっきり見える。
 ぼくのスイムアップは、1時間を少し過ぎたところ、殆ど身
体に疲れがないのが、印象的だった。ところが、後で知ったこ
とだが、スイムの順位は950番前後であった。泳いでいた感覚
からして、特にごぼう抜きにされた感じでもなかったし、
後、6〜7分速くスイムアップすれば半分位の順位になるので、
ここは余り気にするところでは、ないのかもしれないが・・。
 スイム-バイク間のトランジションタイムでトラブルがあっ
た。着替えを済まし、トランジションバッグをボランティアに
渡した後、ぼくは日焼け止めを塗っていないことに気付いた。
宮古島のこの時期の紫外線は強烈で極端な日焼けは、競技のパ
フォーマンスに確実に影響を与える。仕方なく、もう一度トラ
ンジションバッグをボランティアに返してもらおうとしたが、
既に後から来た選手のバッグの下になって何処にあるのか分か
らない。何とか出てきたものの、スイムで言えば、100位位順
位の変わる時間を棒に振っただろう。少しずつ、運命の歯車が
狂ってゆく。

2008-miyako-bike-1.JPG
           *
 バイクスタートする。スタート直後から、先行する選手を次
々に抜いて行った。昨年のアイアンマンコリアの前に交換した
ホイールは、今回は強い見方になった。やはり、キシリウムは
良く回る。スイムでの疲れがないせいか、快調な出だしだった


2008-miyako-bike-dri.JPG

 走り始めて、1時間30分。45キロを超えた辺りだろうか。最
初の変調に気が付く。軽い吐き気がした。脱水に対する対策と
しての塩タブの効果を疑わないぼくは、すかさず、塩タブを取
る。しかし、今回はこれまでのレースとは違った。脱水云々の
前に内臓が弱っていた。逆に塩タブを適量以上にとり、気分が
悪くなる始末だった。それでも、暑くも寒くもない絶好の天候
と追い風を味方にぼくの順位は、上がっていった。バイクコー
スは宮古島を一周半。前浜を出た後、池間大橋を超え池間島に
渡った後、一路南下、風光明媚な東平安崎を目指す。この辺り
で70キロ位である。全体的に、風の向きがはっきりしていて、
向かい風では速度が出ないが追い風を背負うと、50キロ以上出
る区間も少なくない。そして、何よりも宮古島の海が美しい。
もう少し日差しが強い方が、もっと海は綺麗なのだが、身体に
加えられるダメージは大きいから、欲は言えない。
 
2008-miyako-bike-2.JPG

 130キロを超える。2度目の池間大橋。快調なタイムと裏腹に
内臓の調子が良くない。だが、残りの距離は少ない。スイム・
バイク合わせて、6時間30分。その線ならば、11時間を十分に
切れるだろうと思っていた。この時点では、この後の過酷なラ
ンのイメージは、未だ無かった。

2008-bike-z.JPG

 イメージ通りとまでは行かないが、サイクルコンピューター
では、バイクは5時間18分でフィニッシュ。もっとも、正式タ
イムでは、トランジションタイムは、すべてバイクタイムに含
まれるため、5時間34分だった。それでも、これまでのベスト
よりも2分早い。バイクから、降りるとフラフラしたが、毎度
のことである。右手をサドルにおいて、トランジションエリア
を走った。
              *
 ランスタートする。この時点で6時間37・8分だったと思う。4
時間22分とか、23分で、42キロを走ってくれば11時間を切るタ
イムだ。ぼくは、3種目の中ではランが一番得意だ。ランだけ
ならば、この間の東京マラソンで3時間15分だった。
 一般にトライアスロンのランは、マラソンの自己ベスト+30
分だと、モノの本には書いてある。しかし、それ位の誤差で走
れる人を余り見たことがない。ぼく自身もこれまでのトライア
スロンのランのベストで、4時間30分を切れた記憶がない。そ
の位の誤差で走れるのは余程、バイク・ラン共に鍛えている人
なんだろうと思う。だから、この時点でぼくは、10時間台でフ
ィニッシュするのは、難しいだろうなと思っていた。
 ランスタート時点でサプリメントを取ると、トライウエアに
カーボショッツを2つと塩タブを捻じ込んだ。いざ走り始める
と、内臓の調子はバイクの時よりもますます悪くなった。先に
飲んだサプリメントが速攻で、戻って来そうだった。加えて、
バイクの100キロ地点から、数時間、尿は出ておらず、気持ち
悪くて何度か立ち止まったが、どんなに出そうとしても、一滴
の尿も出なかった。これには、ゾッとした。明らかに肉体が変
調を来たしていた。
 走り始めて、4〜5キロで先行していたnoriさんに追いつく。
この時、ぼくの体調は余り良さそうには見えなかったと、後で
彼は言った。
 ゆっくりと、吐き気を我慢しながら、10キロを超えた。だが
辛いのは、ぼくだけではなかった。バイクの時に大人しめだっ
た日差しが、きつくなりコースを走る選手の足取りは誰しもが
、非常に重くなっていた。
 12キロのエイド・・。遂に限界の時が来る。強烈な吐き気が
あったが、ガス欠を防ぐために水と一緒にカーボショッツを流
し込んだ。その時だ。ぼくは、嘔吐した。エイドの端に蹲り、
長い間、嘔吐していた。
「救護車を呼ぼうか。」
 ボランティアが声を掛けてくれる。
「大丈夫です。」ぼくは、何とか立ち上がると、
「走ります」と答え、走り出した。
 走り始めて、30秒も経たない内に2度目の強い嘔吐・・。
「大丈夫か?」
 後ろから、ボランティアが声を掛けてくれる。もう、無理だ
ろうと言う気遣いが感じられた。だが、ぼくは立ち上がって、
もう一度走り始めた。今度は、もう吐き気はなかった。どころ
か、気持ちがよくなって身体が軽くなっていた。ぼくは、次に
会ったマーシャルに残りのカーボショッツと塩タブを渡した。
一度嘔吐している。既に身体が食物を補給出来る状態でないこ
とは明らかだ。少しでも、身体を軽くした方が良いと判断した

 既に塩分を取って脱水を抑えるという次元ではない。尿もで
ないんだから・・。後は原始的だか、気力とか根性とかでやる
しかない。

2008-miyako-ori-z.JPG

 この決意は、+に作用したというべきだろう。『何とか吐か
ないように』という守りのランから、『捨て身で走る』ランに
、ぼくの走りは変化した。
 自分でも驚く程身体が軽く、ペースが上がった。30キロ位ま
での間に、殆どの知人に会った。ここまでのペースは
驚異的で、嘔吐してあれだけタイムロスしたにも関わらず、
ランスタートから、此処まで、3時間ちょっとで来ていた。
 否、トライアスロンのランはフルマラソン+30分が基準だと言う。
この速度が本来のぼくのスピードなのかもしれなかった。
でももし、このままの速度で走りきれたら、信じられないタイムが
出るかもしれない。嘔吐した身体で、そんなこと出来る訳がないことを知りつつ、今まで知らなかった自分の身体能力の可能性を垣間見た気がした。

2008-miyako-run.JPG

 しかし、案の定、快進撃も此処まで。
 日差しが厳しくなり、気温が上がる。既に体内に殆ど残っていない筈の汗が、
何処からか溢れるように出てくる。汗と一緒に塩分が大量に失われる。
脱水症状が加速して行く。もう、2時間近くも水分も糖分も取れない状態が続いている。
何度も何度も気が遠くなり、ペースが遅れ始めた。
 そして、35キロ地点で最後に会った知り合いがSAさんだった。
ぼくは、後ろから声を掛けたが、
その時には、もう声を出すのも辛かった。
ぼくのその様子にSAさんは、
「我慢して!走り続ければ、気分も変わるよ。」
と言ってくれた。
そして、「10時間代で入れるよ!先に行って!」
ぼくは頷くと、尽きかけていた気力を振り絞った。

正直に言うと、SAさんに激励されるまで、
ぼくは10時間代でゴール出来るのか、
どちらかというと、無理ではないかと思っていた。
ゴールすれば、倒れても良いと思っていたが、
ゴールより手前のコース上では、倒れたくなかった。
絶対的な負担を身体に負わさなくても、
11時間代の一桁のタイムは、もう間違いない。
自己ベストを出すことは出来るのだ。

しかし、此処まで来た以上、もうそれでは納得出来ない。

旧平良市内に入る。スタートが30分早くなったこともあって、
日が未だ高い。例年よりも、旧平良市外の様子がはっきり見える。
市街地の応援は相変わらず、物凄い。
間も無く40キロ・・。
昨日、5時30分迄には戻ってくると約束したアクセサリー店の前・・。
店の女性は、応援に出てくれていた。
「あっ!」
ぼくの名前を呼んでくれた。
「すみません!遅れました・・。」
10分遅刻だ。

40キロの最後のエイドで水を被る。
ラスト2キロの看板前で時計を見た時、残り時間は11分だった。
諦めない。10時間代で、ゴールするんだ。

周囲を一緒に走る選手達も必死だ。
皆、頑張れば・・。
という思いは一緒だ。
一人、一人選手を抜くたびに彼等の気力を感じた。

ラスト1キロ。残りの時間は5分20秒・・。
大歓声に手を振ることも、ありがとうも言うことも、
出来ない程、疲労しつくしていた。

意識が飛びそうになるのを何とか、気力で繋ぎとめて、
17時58分・・。
ぼくは、宮古島市総合陸上競技場に帰ってきた。
ゲートを潜ると、未だ明るい空の下、
競技場全体を大観衆が埋め尽くしていた。
「ウワーッ!」「ワーッ!」「ワーッ!」
ぼくは、残り僅かな時間に全てを賭けた。
もう、死んでも良いとすら思った・・。

2008-miyako-goalzz.JPG

           *
真っ暗な夜空に大輪の花火が咲く。
大会終了を告げる数十発の花火を生で見たのは、
実は初めてだった。
こんなにも、花火を美しいと思ったのは、久しぶりだった。
ぼくはゴール後、3時間近く病院で点滴を受けた。
点滴を受けながらも2度嘔吐し、気分が良くなる迄、
時間が随分必要だったのだ。
そして、今競技場に荷物の引き取りに来たのだ。
終わったんだ・・。全部・・。
           *
4/21(月)
大会翌日。noriさんは、火曜日から学校があるので、
今日東京に戻る。午前中、バイクを引き取りに行き、
午後からは、アワードパーティに参加した。
 知り合い皆から、
「残念だったね。」「惜しかったね。」
と、声を掛けられた。
後一息で、10時間代で走れず、300番台でゴール出来なかった。
悔しかったが、
「宮古島で悔しい思いをした年の方が、夏は結果出してるじゃない」
と、noriさんが言ってくれて救われる。
そうだ。その通りだ。
            *
19時40分の飛行機で東京にnoriさんが帰ったのを見送った後、
月曜日は、毎年訪れるビアファスで、一人でディナーを取った。
此処の飯は、このホテルのレストランの中で一番旨い。
一人になると、レースのことばかり思い出す。
悔しさは勿論あるが、空虚さはなかった。
何処かに充実したものを感じていた。
全力は尽くしたということだろう。
4/22(火)
最終日。いよいよ、東京に帰る。
アイアンマンコリアで一緒だったNIさんからのメールで、
アイアンマンジャパンに行かないのか?と聞かれていた。
今年は、アイアンマンコリアがない。
ジャパンに出るならば、もう2ヶ月しかない。
選考レースにカナダやドイツを選ぶ手もあるが、
別れる前、noriさんは、ジャパンに出るべきだと言ってくれた。
その締め切りは、4月末だ。

この日は生憎の雨で、ホテルの中で殆どの時間を過ごした。
丸一冊文庫本を読み、このブログの文章も大方が、
最終日に書いたものだ。
たまにこうした日があっても良い。
これも、立派な非日常だ。

ぼくがホテルを後にした頃、
一日降った雨は既に止み、空には夕日が差していた。
19時40分定刻に、ぼくを乗せた飛行機は宮古島を離れた。








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2008年01月23日

昇段

昨日、昇段証書を頂いた。
10月には、公式試合に出場し、
11月に審査を受けた。
そして、審査合格から約2ヶ月。
晴れて黒帯を締められる身になった。
昨年の10月に高校の格技の時間以来、
久方振りに、柔道着に袖を通して以来・・。
頑張って続けてきたことが、一つの結果になった。
posted by まき88ま at 09:36| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月27日

2008年2月東京

昨年、2007年の東京マラソンに参加申し込みをした時、
ぼくは、この大会に対して強い参加希望を持っていた。
普段は、車で占領されている東京の繁華街を、
走れる事など、滅多にあるものではない。
出たい、出たいと思っていると、見事抽選に外れてしまった。

今年は全く期待していなかったが、当選した。
当選すれば、一も二もない。
出場する。
東京は、特別な場所だ。
一生で一番、良い走りをしたい。
posted by まき88ま at 13:01| 東京 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月11日

アイアンマンコリア 2007

jeju-run-3.JPG

8月23日(木)
ぼくは、数週間も前から、チェジュ島に出発するこの日を、
心待ちにしていた。
正直に言えば、レースに対する期待もさることながら、
東京のうだる様な熱さから、一刻も早く逃げ出したい、
という気持ちで、出発の日を指折り数えて待っていた。
今年の東京の暑さは殺人的で、
それ故に南のリゾートで暮らす数日は、
例年にも増して、魅力的に思えた。

昨夜2時間程しか眠らず、旅の準備をこなしたぼくは、
午前5時30分に部屋を出て、成田空港に向かった。
そして、午前9時45分成田発チェジュ島行きの飛行機に乗った。
チェジュ島は、成田から飛行機で約2時間。
韓国本土よりも、日本の長崎の方が距離は、ずっと近い。
55万人が住む韓国最大の観光地の一つであり、
風光明媚な美しい島である。

DSCF0023.JPG

チェジュ国際空港に到着したのは、お昼前だった。
旅行会社のTUさんに自転車ごと空港で拾われ、
今年の定宿であるスィーツホテルに向かった。
チェジュ島は、天気の変わりやすい所だ。
島の北側にある空港は、かんかん照りだったが、
南の中文リゾートに向かう迄に内陸で、スコールになった。
物凄い勢いの雨に驚いたが、ホテルに到着する頃には、
スコールは収まり、暗い雲の切れ間から青空が覗いていた。
急激な天候の変化に、昨年のレースを思い出した。
今年もあんなタフなレースになるのだろうか。

同室のNIさんは、24日の到着だ。
ぼくは、チェックインすると、
身分不相応なデラックスルームを一人で使って、バイクを組んだ。
スィーツホテルは、
昨年迄、使っていたロッテホテルの様な大きなホテルではないけど、
3階建ての小作りで瀟洒なホテルだから、動線が短く移動が楽だ。
バイクを組むと、昨日殆ど寝ていない為、直ぐに眠くなる。
午後9時には、ベッドに入った。
東京は猛暑日続きで夜になっても、30度を超えていた為、
慢性的に寝不足だったぼくは、貪るように眠った。

8月24日
本来ならば、レースに向けてのリズムを作る為に、
午前6時位には起きようと思っていた。
それでも、9時間近く寝ることになる。
しかし、実際に目を覚ましたのは午前9時前で、
12時間近くも寝ていた。
ここ数年、ぼくはこんなに長く間寝たことがない。
東京でのトレーニングと仕事の毎日に、
疲労困憊していたのかもしれない。
今日のぼくのスケジュールは選手登録と、カーボパーティだ。
少し早い昼食を行き着けの食堂で済ませ、
ホテルの喫茶室でコーヒーを飲みながら、
文庫本を捲る。一時間程、読書した。
この旅には、宮本昌孝さんの「夏雲上がれ」を持ってきた。
喫茶室を出たのは、午後2時過ぎ。
昨日、ぼくが部屋に入ったのが、大体これ位の時間だったので、
NIさんがそろそろ、到着している頃だと思って部屋に戻ってみた。
既に、彼は到着していたが、大荷物が置いてあるばかりで、
不在だった。到着早々、エントリーに出かけたものらしい。
ぼくも、エントリーを済ませないと、
カーボパーティに出席出来ないので、重い腰をあげることにする。
とは言え、今年のエントリー会場はロッテホテルだ。
毎年エントリーをしているFIFAワールドカップスタジアムが、
サッカーの試合の為に使えないせいだ。
ぼく達、中文リゾートに宿泊している者には、
移動が楽なので、返ってありがたい。
NIさんとの再会は、エントリーに向かう道すがらだった。
彼は、毎年練習パートナーのHAさん夫婦とチェジュ島にやってくる。
今年は、ぼくがそこにおじゃまさせて頂く格好だ。
遠くから、3人の姿を見た時、直ぐにNIさん達だと分かった。
懐かしさと照れくささの混じった笑顔をぼくは、作った。
NIさんは、マンネリに陥りそうになっていたぼくの競技人生に活を入れてくれた恩人だ。
ハワイで行われる
ワールドチャンピオンシップ=アイアンマンハワイの常連。
強豪中の強豪エイジだ。
2年前、彼の実践する超人計画を聞いたぼくは、
中途半端な努力ではハワイには行けない、と気持ちを新たにした。
あれから、停滞していたぼくの記録は、少しづつ向上している。

DSCF0001.JPG

カーボパーティは、ICCで行われた。
韓国ドラマ「ALL IN」の代表的なロケ地の一つで、
イ・ビョンホン演じるイナの事務所が置かれた所だ。
NIさんの練習パートナーの方達とテーブルをご一緒させて頂いた。
出場選手が一同に会する最初の機会が、このパーティになる。
「アイアンマンコリアに参加する為に、日本から来た。」
否応なく、それを自覚させられた。

8月25日
レース前日になる。
天候は落ち着かず、カンカン照りかと思えば、
突然、バケツをひっくり返した様なスコールが来る。
この日もそうだった。
お昼過ぎに突然降り出したスコールが通り過ぎるのを待って、
バイク預託に出かけたが、
会場を離れると直ぐに次のスコールが来た。
波乱を予感させられた。
この日は、スィーツホテル内で
HAさん夫婦とNIさんと夕食をご一緒し、
午後9時には、ベッドに入った。

DSCF0003.JPG

前回の宮古島と比べ、朝寝坊が多かったが、
滞在期間中、ベッドに入る時間だけは早かったのが、
功を奏したか、夜中に数回目を覚ましたものの、
レース前日としては、良く眠れた。
「寝てばっかりやな。」
早朝のスイム練習にも付き合わなかったぼくに、
NIさんは苦笑していた。

8月26日(日)

いよいよ、レースの朝を迎える。
午前3時30分に起床。
パンやお握り。即席饂飩等、炭水化物を中心にした食事をする。
NIさんは、ぼくの倍位は、食べていたと思う。
ぼくは、毎年のことながら、韓国の辛い料理に少し、
付いて行けず、お腹が少し緩い。
昨日は、胃薬を飲んだ位だった。
辛いものはなるべく、控えるようにした筈なんだけど・・。

午前4時過ぎ・・。
一足先にNIさんが部屋を出る。
ぼくは、歩いて15分位の距離だが、タクシーを使って会場に行った。
韓国のタクシーは初乗りが1800ウォンで、日本円で200円位。
非常に安い。体力温存だ。

未だ薄暗い時間だが、
会場には、既に殆どの選手が集まり、
忙しくバイクのセッテイングをしていた。
午前6時前になる。
会場を埋めた千人の選手の不安は、一点に集中していた。
スイムでのウェットスーツ着用が認められるかどうか、
ということだ。
一昨日のカーボパーティで主催者側から、
「ノー ウェット」の可能性があると言われていた。
連日の猛暑で午前7時時点の海水温が、実に27度もあるという。
脱水症状を抑える為に、
当日の水温次第でウェットスーツの着用を禁止するというのだ。
ぼくは、実は「ノー ウェット」の大会は初めてである。
実際、ウェットスーツを着ていると
どれだけ有利なのかを肌で感じたことがなかった。
因みにこの点を、毎年ハワイで「ノー ウェット」を
経験しているNIさんに聞いてみたところ、
「水泳の下手な選手なら15分位は、変わってくる」とのことだった。
今日は、午前中から、良く晴れている。
水温が低い訳がない。
間も無く、「ノー ウェット」の旨の会場内放送があった。
ウェットスーツに関しては、着用しても良いが、
その場合、仮に成績上位でも、
ワールドチャンピオンシップへの出場資格は与えられないし、
成績優秀者として、表彰もされないとのことだった。
(先日発表されたover allの順位からも
省かれていたみたいだった。)

jeju-swim.JPG

午前7時。競技スタートの号砲が鳴る。
WC(ワールドチャンピオンシップ)の権利を得られない、
と言われたにも関わらず、ウェットスーツ着用の選手が多い。
海が荒れている。
普通に波乗りが出来る高波が、押し寄せてきていた。
この荒波を見て、WCよりも命あっての物種と、
ウェットスーツ着用者が増えた様だ。
しかも、WCのスロットは、50。
参加選手は、1048人。WCに行ける人間は、5%以下なのだ。

ぼくは、例によって少し後方からスタート。
「ノー ウェット」は、初めてという不安があった。
慎重な出だしだ。
波が非常に高い。
スタート直前に入水チェックを十分に行った選手から、
「スタートして100〜200メートル位の所に浅瀬があって、
その辺りは波の流れが非常にキツイが、
そこを超えれば、泳ぎやすくなる」
と、いう事前情報を得ていた。
この情報を耳に入れてなければ、
荒れ狂う高波に絶望的な気分になったかもしれない。
目の前に反り立つ様な高い波の壁がある。
巻き込まれれば、一気に浜辺迄、戻されそうだ。
自ら、波の下に潜りこみ、波を交わすか、
波のトップで、波をやり過ごすしかない。
ぼくは、押し寄せる波に果敢に向かって行った。
そして、押し寄せる波を幾つも幾つも、超えていった。
やがて、波は収まり、泳ぎ易くなった。
だが、今度は1000人を越える選手同士ののバトルが始まる。
スイム競技中は、一切の声がない。
例え泳ぎづらくても、頭を叩かれても、
足を引っ張られても文句も言えない。
声のない世界には、一種の恐怖があり、
何回目の大会であろうと、それが完全に消えることはない。
だが、そんな感情は無視して泳ぐしかない。
水の中は、早朝であるにも関わらず、生温かい。
スイム競技開始から、30分。
荒波の中で、もがき続けている。
水温27度。確かにウェットスーツを着ていれば、
暑苦しいことこの上ないだろうと思う。
天気は、快晴で朝のこの時間でさえ、
照りつける日差しが強く、背中がジリジリした。
裸の方が、ずっと泳ぎやすく、
時間が経つと共に「ノー ウェット」の不安は、和らいできた。

スイムコースは、一周1.9キロの菱形のコースを二周回だ。
一周回すると、一度砂浜に上がり、
周回チェックを受けた後、二周回目に入るのだ。
ぼくは、一周回目を間も無く終えようとしていた。
浜辺に近付くと、浅瀬になる。すると、波が高い。荒い。
ぼくは、浜辺近くで高波に呑まれ、叩きつけられるように
砂浜に打ち上げられた。
ぼくは、砂だらけになりながら、
急いで立ち上がり、周回マットに向かった。
流されていた。マット迄、少し走る。
「ピピッ」と周回音が響く。
コップ一杯の水を給水し、直ぐに2周回目に入る。

スタート時点よりも、波が荒れている。
人間の身長よりも、高い波が押し寄せる。
前を行く選手が、果敢に高波に飛び込むが、跳ね返されてきた。
丸太の様に、流されてきた選手に、
ぼくの隣にいた選手が体当たりされる格好になり、
二人ともに横倒しになった。
ぼくも一度、飛び込もうとしたが、押し返されて尻餅を着いた。
そこに、容赦ない高波。一気に浜辺に戻された。
冷静になれ。波の満ち干き・・。
波が引く瞬間に、引いていく波に乗る。
スッーと沖に出た。やがて、来る高波の下を潜る。
そういう波との駆け引きを繰り返す内、
ぼくは潮流の激しい浅瀬を抜けていた。
しかし、随分時間を浪費していた。
既に、競技開始から一時間に近い。
初めての「ノー ウェット」、加えて荒れる海・・。
タフなスイムになった。
2周回目は、流石に選手がばらけている。
バトルが少ない分、泳ぎ易くなってきた。
コースミスを犯さない様にコースロープに沿って泳ぐ。
混雑が起こるコーナー部分以外、特に注意は必要はなかった。
1周目のタイムロスを少しでも、
埋めるべく積極的にペースアップして、菱形を回った。

浜辺に近づくと、海底の色が変わる。
海草の群青色を抜けて、白い砂が見えるようになるならば、
浜辺が近い。しかし、浅瀬に至ると、又しても荒波に揉まれる。
ここを抜けなければ、浜辺に戻れない。
進んでは、押し戻されという波との押し引きの末、
選手達は、高波と共に、海岸に打ち上げられる。

ぼくは、一周目同様に砂浜に打ち揚げられる様に、転がった。
立とうとした瞬間に、押し寄せた高波に呑まれて、転倒する。
遮二無二、立ち上がった。
次の波に掴まらないように、一気に波打ち際を駆け抜ける。
コースロープ近辺を泳いでいた筈なのに、随分と流されていた。
スイムゴールのチェックマット迄、数十m走った。
「ピピッ」
驚いた。100分を超えているではないか!
半分より、ずっと下の順位だろう。
あれだけ必死で泳いだのに・・。
正直、軽く自分に失望していた。

気持ちを切り替えて、バイクトランジットに向かう。
これまでは、ウェットスーツの下にトライウェアを着ていたから、
直ぐに、バイクに移ることが可能だったが、
今回はトランジッションテントで、
水着からトライウェアに着替えた。
急いだつもりだったが、手際が余り良くなかった。
今日の天候だと、暑さ対策は必須だ。日焼け止めやら、
何やらとトランジションに随分時間を喰ってしまった。

バイクラックから、スタート迄、
バイクを片手で押しながら走り、
スタートラインを越えるや否や、バイクに飛び乗る。
スイムの遅れを取り戻さなければならない。

jeju-bike-1.JPG

本格的には、初使用となる
ニューホイール=マビックキシリウムエリートは、
軽快に回った。
長時間高速巡航するトライアスロンのバイクパートだ。
予想以上に速い。
40キロ前後迄、速度アップした時、以前の完成車に付いていた
ホイールでは、その速度を維持しようとすれば、
懸命にペダルを踏まなければならなかったが、
新しいホイールは、勝手に回ってくれる感じで、
意識してペダルを早く回す必要はなかった。

バイクパートは、快調な出だしだった。
序盤は、市街地を中心にした比較的フラットなコースを走る。
昨年は、序盤は速度を抑えたが、今年はペースアップし、
昨年のタイムを大幅に塗り替えてやる、
という意気にぼくは燃えていた。
バイクスタート直後の2時間は、
30キロを越えるアベレージで、60キロ以上走った。
スイムで先行した選手を随分、抜いた。
スイムが、厳しかったせいだろう。
例年よりも、周りの選手が疲労している様に感じた。

70キロ地点。これから先は内陸に入り、山岳主体のコースになる。
アイアンマンコリアのバイクコースは、アップダウンが激しい。
ぼくもこのコースの攻略には、長い間苦しんできた。
しかし、昨年はスイムが中止になったとはいえ、
最悪の天候の中、ほぼ満足の行く形でバイクフィニッシュ出来た。
「もう怖くはない」
昨年以上に、練習はやっている。
果敢に攻めるのみ、という気持ちだった。
これまでのところ、去年よりも、断然速いペースだ。

延々と何処までも続く山岳を、選手の群れが行く。
既に太陽は、中天に高く、盛夏の強い日差しが、
選手達に容赦なく降り注ぐ。
風はあり熱さを多少和らげてくれるものの、
速度は出せず、諸刃の刃になる。

90キロ地点。山岳に入ってからのペースダウンが想像以上だ。
最初の予定よりも早く、
自分で用意していたゲーターレードがなくなった。
中間地点のエイドで仕方なく、一度止まり、
バイクに跨ったまま蓋を開け、ボトルにスポーツドリンクを満たす。
バイクに搭載した2本のボトルの内、
一本は給水用のスポーツドリンク。
もう一本は、水を入れている。
水は、試合中には身体の塩分の濃度を低下させる為、
給水用としては使わない。
但し、甘すぎるカーボショッツを補給した際、
身体に流し込むのと、口内に残って気持ち悪いそれを嗽で
洗い流すのには、積極的に使用した。
又、給水地点で受け取ったのも、
この90キロのエイドを除けば、殆ど水だった。
水は、暑熱に犯された体を冷やすのに必要だ。
毎年、この90キロのエイドで地元韓国の選手が、
何十人もバイクから降りて、休んでいる風景を見て驚いていたが、
今年は、このエイドで休んでいる選手は殆ど見なかった。

そして、コース中、最大の山場が来る。
90キロ〜110キロの辺り。登り勾配が本当に厳しい。
その中でも一箇所、激坂というに相応しい坂があり、
そこでは、速度が10キロも出ない。
苦しくて堪らないが、ひたすら我慢してペダルを漕ぐ。
去年までは、この坂で自転車から降りて
押している韓国人選手が多くいたが、
今年は、殆どそうした選手を見かけない。
トライアスロンが韓国に浸透し、
選手のレベルが上がっている証左だ。
毎年、このレースでも、韓国人選手の参加割合が増えてきている。

『110キロ地点位進めば後は、下りメインの楽なコースに変わる。』
そう思って頑張ってきたぼくだったが、実際はそうでもなかった。
去年は、このコースの攻略に対して、必死の覚悟があったが、
今年は、何処かこのコースを甘く見ていた。
そこに今年の落とし穴があった、と思う。
確かに、悲鳴を上げたくなるような坂は、無くなったが、
細かなアップダウンは、何時果てるともなく、
130キロ地点位迄、続いた。
昨年は、山頂付近では霧と雨の為に遠く迄、見えなかったが、
今年は、遠くの畝迄良く見える。
下りの次は、又登り。頭の中のイメージとの違いに苦しむ。
あの激坂を登りきれば、後は10キロを走るのに
15分もかからない様な下りが待っているんじゃなかったのか。
ペースは、更に落ちる。
標高の高い山間部に吹く強い風に頭が痛くなる。
これは、悪い時のパターンだ。
給水が出来なくなり、バイクゴールと同時に嘔吐した
過去の大会の記憶が蘇る。
定期的に塩タブだけは、取ることにする。

下りが始まったのは、もう130キロになろうとする頃か。
それにしても、遅すぎた。
コンディション最悪のスイムと酷暑に苦しめられ、
身体は疲労している。この下りを果敢に攻める力は、残ってない。
体力回復に努めながら、山を下り続けた。
145キロ位迄、下り一辺倒の道が続く。
しかし、体力は回復しない。

平均速度50キロ以上の下りが終わり、登りが始まると、
ほんのちょっとした坂でも、気持ちが滅入る。
風も強く、速度も思うに任せない。
但し、辛いのは、他の選手も同じの様で、
相当へたばっているにも、関わらず、
ぼくをパスしていく選手は少ない。
周りを走る顔ぶれは、ほぼ固定しており、
抜いたり、抜かれたりを繰り返している。

jeju-bike-2.JPG

150キロを超える。
だが、バイク開始から6時間近く経っている。
昨年のバイクラップを更新することは、到底無理だ。
どころか、6時間代でフィニッシュ出来るのか。
昨年は、バイクゴール近くの
ワールドカップスタジアムの周辺道路は猛スピードで、
走っていた記憶がある。
しかし、去年、バイクの調子が特別良かったのは、
明らかで、今年同様に走れる自信は、なかった。
どころか、去年以前の大会の悪いイメージの方が先行してしまう。

だが、重ねてきたトレーニングは、ぼくを裏切らなかった。
バイクゴールが近づくにつれ、不思議とペースが上がった。
辛いことに変わりはないが、昨年以前の様な情けない走りではない。
170キロを超える。残り10キロを切った。
ワールドカップスタジアム前の道を疾走する。
前を行く選手を抜き去る力が、残っていた。

全力を使い果たした感じで、バイクゴール。
6時間代で戻ってきたとはいえ、昨年と比べ9分遅れのタイムだった。
あのコンディションの悪いスイムの後ならば、と納得出来るか。
否、ホイールまで新調したのに、このザマか。
身体の疲労も、昨年の比ではない気がする。
少し、フラフラしながら、バイクをサポーターに手渡した。
そこで、応援のHAさんの奥さんに見付けてもらい、
「がんばれ」と声をかけてもらった。
『余りフラフラしていると、格好悪いなあ』
と心中で苦笑いしながら、「すごく熱いです。」
と声を返した。
午後3時をとっくに過ぎているのに、猛烈な日差しだ。
ランスタート直前のエイドでサポートの中年の女性が、
日焼け止めを上半身と顔にタップリ塗ってくれた。

jeju-run-2.JPG

蜃気楼の立ち上るランコースに出る。
42キロ・・。大丈夫か、俺・・。
光明を余り見出せないまま、ランに入る。

ランスタート時点でSAVASを飲んだ。
後のスペシャルフードは、カーボショッツが2本。
2周目と3周目の開始時点で飲もうと決めている。
ランで使うつもりだった塩タブは、
バイクに置いたままにしてしまった。
横腹に痛みが来るかもしれないが諦めて、耐えるしかない。

トライアスリートは、ランの最初の5キロで、
180キロバイクのペダルを踏んだ足を、
42キロ走り抜ける足に変えていく。
走り始めのこの5キロは重要で、最初は違和感があるが、
段々と普通に走れるようになる。
バイクを走り終えた後は、もう駄目なんじゃないか、
と思ったぼくだったが、ホイールを変えた効果なのか、
足は何時になく軽く、走るのが楽だった。
但し、例年よりも遥かに遅いスイムラップと
ホイールを新調し、練習していたにも関わらず、
昨年よりも遅かったバイクラップを
考えると、これらのビハインドを跳ね返す自信は、なかった。

アイアンマンコリアのランコースは、
細かなアップダウンのある余り楽とは言えないコースで、
ワールドカップスタジアム前の公道を使って行われる。
ワンウェイコースの2箇所にチェックポイントが
敷かれた一周14キロの特設コースを3周回する。
高速で走るバイクパートは、風が暑さを和らげるが、
ランの場合は、それがない。
2.5キロ毎に置かれたエイドが生命線だ。
ここで、十分に身体を冷やし、給水することが完走の決め手になる。
猛烈な暑さの中、
ひたすら『次のエイド迄は、走るんだ』、と念じつつ頑張る。

苦しい時には、様々なドラマがある。
レース中、暑さで苦しむ中、アメリカ人と思われる選手に、
細かく砕かれた氷の入ったビニール袋をもらった。
氷枕みたいな感じだ。
キャップの中に入れて走ると、最初は少し頭が痛かったが、
次第に快適になった。この氷枕のあった間は、暑さが随分和らいだ。
後で、礼を言おうと思い、
その時はゼッケンナンバーを覚えておいたが、
レース後には、失念していた。顔も思い出せない。
レースではサポーターは勿論、沿道の声援、選手同士、
皆が助け合う。そして、お互いの好意が選手を完走に導いている。
NIさんとは、周回の間、2回ほど会った。
物凄い速さで走っていて、気力の充実が伝わってくる。
お互いに声を掛け合った。

一周目が、終わる。
ここで、ぼくは痛恨のミスを犯す。
周回を終えた選手は、
ワールドカップスタジアムを一キロ程越えた折り返し地点を周り、
二周回目にスタートする。
周回のチェッキングマットの直前にエイドがあり、
選手達はここで身体を冷やし、給水をしてから、
周回チェックを受けられる様にという
主催者側の心遣いの様だった。
一周目を終えたぼくは、
エイドで給水を終えた後、二周回目に入った。
(だが、何か大切ことを忘れている。)
その違和感を感じながら、チェックマットを踏んでいないことに
気づいたのは、もう2周回目に入って3キロも走ったところだった。

目の前が真っ暗になる位の衝撃だ。
このまま、チェッキングマットを踏まずに完走すれば、どうなるか。
知れたことだ。
ルールに厳格なアイアンマンが、完走を認める筈が無い。
悔しくて堪らないが、戻るしかなかった。
逆戻りする3キロは、気が遠くなるほど、遠かった。
48キロ走らなければいけない。
そんなに、長い距離はRUN単独でも走ったことがない。
自業自得だ。
自分自身の間抜けさに、無性に腹が立った。

改めて、二周回開始のチェックマットを踏んだ。
これは、罰なのだ。
ぼくは思った。
ぼくは、スイムとバイクのタイムが悪かったことで、
調子が悪くないにも関わらず、何処かランを流して走っていた。
必死で走っていなかった。
神様は、そんなぼくを怒ったのかもしれない。
この後は、同じミスを繰り返さない様に
チェックマットを踏んでから、給水する様に心がけた。

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2周回目以降は、必死で走った。
ペースも上げた。
そうしないと、13時間代でさえゴール出来ない恐れがあった。
太陽の位置が次第に低くなるが、未だ熱さは衰えない。
苦しさは、相変わらずだが、
48キロのランを走りぬかなければいけない。
ぼくは、このコースミスで、
ライバル達に大きく差を付けられることになった。
一周回目の7キロの周回ポイントで、
約1キロ先を先行していると判断出来た顔見知りの選手との
差が、21キロのチェックでは、5キロ近くに開いていた。
何度も同じレースを戦ってい
るこの選手はスイムが得意で、先行されてしまうが、
バイク・ランでぼくは、何時も逆転していた。
しかし、中間地点で5キロの差があると、
如何にランの調子が良くても逆転は難しい。
悔しいが、全て自分のミスだ。

3周回目に入る頃には、
さしものチェジュの夏の太陽も完全に没した。
レース開始から12時間が経ち、
ゴールのワールドカップスタジアムでは、
ゴールした選手に対する祝福のアナウンスが流され、
3周目に向かうぼくにも聞こえてくる。
悔しかった。ぼくは、12時間を切ることを目標にしていたから。
でも、実際はこの時点でゴールしていた選手は
100人にも満たなかったのだ。
酷暑と破天荒な海のコンディションに苦しめられたのは、
皆一緒だった。
ランの最中、耳を指先でこすると、
砂浜の砂がジャリジャリ、ごっそり出てきた。

完全に日の落ちた周回コースを走る。
30キロを過ぎた辺りから、内腿が痙攣を始め、
エイドで止まる度にエアスプレーを掛けた。
ペースを維持したいが、足が言うことを聞かない。
35キロを過ぎる。
(本当なら、もうゴール。)
迂闊だった自分を呪いたくなる。
走った距離が42キロを超えてからは、
肉体的にも精神的にも、限界を超えていた。

既に完走したところで、碌なタイムではない。
一生懸命走る意味は、もうないのかもしれない。
だが、残りの距離を流して歩いてゴールすることは
、死んでもしたくない。
『走り切る。』
それが、ぼくのプライドだ。
それが、出来なければ、どうして次の大会を目指せると言うのか。

40キロ地点を越える。
次第に近づく、ワールドカップスタジアムの光り。
そして、高まる歓声。
ぼくの戦いは、もう直ぐ終わろうとしている。
残り2キロ。
ラストスパートを駆ける。
最後の最後迄、先行する選手を一人でも多く抜いてやる。

やがて、眩く明るい道に出た。
地元の子供達が沿道で、手を合わせようと背伸びしている。
ぼくは、子供達と出来る限り手を合わせた。
FIFAワールドカップスタジアムに入る。
ゴール迄の最後の直線を、懸命に走った。
ゴール!!
もう全身の何処にも力等、一欠片も残ってなかった。
ゴールして二・三歩、歩くと、ぼくは糸の切れた人形の様に崩れた。
サポーターの少年が2人でぼくの身体を、慌てて支えてくれた。
長い長い一日が終わった。
ぼくのゴールは、13時間代の後半で、
午後9時になるには、未だ十分に余裕があった。
この日は、快晴で満天の星空だった。
レースは午前0時迄、続く。
ワールドカップスタジアムの夜は、加熱して行く。

jeju-goal.JPG

8月27日(月)
昨日は、歩くもままならなかったが、
11時位に何とかホテルに辿り付き、
風呂に入るや直ぐに泥の様に寝てしまった。
気分が悪く、何も食べられなかった。
夜は、コップに半分程、水を飲んだだけだった。

目覚めたのは、午前8時。
ゴール直後、入念にサポーターがマッサージしてくれたお蔭か、
昨日は歩くのにも支障があったが、一晩明けた今日は思いのほか、
調子が良い。普通に歩行するのは何も問題がなかった。

NIさんは、全体でも20位前後の順位で、エイジ2位。
流石だ。今年も表彰台に上がることになった。
山岳主体の長距離のバイクトレーニングと
バイク直後に行うラントレーニング。
彼の圧倒的な強さは、そこにある。
未だ未だ、目指すべき道程の遠いことを改めて実感する。

DSCF0006.JPG

NIさんが、ハワイWCのロールダウンに出掛けている間、
ぼくは自転車をばらして梱包したり、
レースで使用したギアを洗濯したりした。
昼食は、ホテルで饂飩を食べた。
疲労した内臓には、やはり日本食が良い。
午後は、夕方のアワードパーティ迄、
ホテルの喫茶店で、コーヒーを飲みながら読書したり、
部屋で昼寝したりしてゆっくりと休んだ。

夜は、アワードパーティだった。
NIさん、HAさんは共に表彰台に立った。
彼らの戦いは、10月のアイアンマンハワイに続く。
ぼくには、先はない。
後になって分かることだが、
ぼくの順位は1050人の参加者中、300番台の前半で、
200番台の後半だった昨年よりも、
20位程遅い順位に過ぎなかった。
アクシデントなく完走していれば、
間違いなく昨年の順位を大幅に更新していただろう。
それでも、ハワイは無理だったろうが、
もっと晴れやかな気持ちでこの場に臨めたに違いない。

パーティの後、部屋に戻り、
NIさんとレースや今後のハワイに向けての
練習の話をしていたところ、
つまみを持って、HAさん夫婦がやってきた。
NIさんとHAさんは、京都在住で一緒にトレーニングをしている。
2週間後から、再びトレーニングを開始するとのことだった。
二人から聞くアイアンマンハワイの話に刺激される。
そして、ぼくは思うんだ。
もう何回も、何回も、数え切れぬ位反芻したあの言葉を・・。
「来年こそ、ハワイに・・。」

8月28日(火)
遂に、チェジュ島滞在、最終日が来た。
折角韓国に来たのだからと、NIさん達と昼食は焼肉を食べた。
チェジュ島は、黒豚が名産で、豚が旨い。

DSCF0025.JPG

一週間近く滞在したスィーツホテルを後にしたのは、
午後2時。チェジュ島からの成田への直行便の飛行機は、
午後6時過ぎの出発だった。
空港で、昨年相部屋だったYAさんと再会し、
NIさんと一緒に大会のことをあれこれ、お話した。
きつく辛い一日だった、というところで、3人の意見は一致した。

関西国際空港に向かうNIさん、福岡空港に向かうYAさんよりも、
ぼくの乗る成田行きの飛行機は、一足早かった。
名残は尽きないが、
ぼく達は夫々の場所で、明日からは又、何時もの日常を過ごす。
だが、日々の生活を懸命に生きるからこそ、
トライアスロンに明け暮れる数日間が、
一層の輝きを放つのだろう。

午後6時過ぎ。
ぼくの乗る飛行機は、チェジュ島を発った。
眼下に広がるチェジュ島の街並みを飛び越え、
東シナ海に出た飛行機は、そのまま雲の上に出た。
ぼくは、機内に目を戻すと、静かに目を閉じた。
終わった。何もかもが・・。
ぼくの夏は終わったんだ。

DSCF0021-1.JPG
















































































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2007年08月23日

LIFE

070821-160427.jpg

いよいよ、チェジュ島に旅立つ日が来た。
ぼくは、もう数時間後には、日本を後にする。
ハワイに出場したい、一心でチェジュに挑み続けてきた。

7月末の渡良瀬の感触は、良かった。昨年よりもタイムは短縮出来た。
そして、その後、ホイールも新調した。
現段階で、バイクはもういじりたい、と思うところはない。

思えば、大学を出て、企業に就職して、
会社を辞めて、もう何年になるだろう。
何もかもを失ったぼくに残されたものが、トライアスロンだった。
ぼくの今も未来も、トライアスロンがなかったら、
想像もつかない・・。
トライアスロンに救われた部分は、決して少なくない。
ぼくにとって、トライアスロンは生きることだ。

明日を信じて、レースに賭けよう。
自分を信じて、レースに賭けよう。
ぼくは、今もこれからも、
熱く生きていきたい。
posted by まき88ま at 01:41| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月12日

横田基地

6月10日。横田基地で、この駅伝に出るのは、3年振りだ。
お世話になっているトライアスロンチームの
ANさんに誘って、頂いた。
普段、休みが平日ということもあり、
ぼくは練習はいつも一人でやっている。
こういった感じで、皆と和気藹々というのも、悪くない。

千歳船橋から電車で70分以上、かかる牛浜駅に午前8時に集合。
前日、早めに寝たので、それほど眠くはないものの、
朝早いのは、少し苦手だ。
そこから、横田基地迄、歩いてゆく。
入り口で、身分証明書による身元確認があった。
免許証を持って来い、と言われていたが、
大げさなものを、想像してはいなかった。
しかし、チェックは厳しく、ぼく達のグループの一人は、
身分証を忘れた為に、基地に入れてもらえなかった。

宮古島以来、走ってなかった。
もういい加減、足刀部分の痛みとは、さよならしたかったので、
ランニングの練習はしないこと、にしていたのだ。
お陰で、体重が宮古島前に絞り込んだ時と比べて
3キロ近く、増えている。

基地に入った後、
クジ引きでグループ分けする。
4人で一組。5キロを4人で繋ぎ、20キロ走る。
ぼくらのグループは、24人なので、6チーム作る。

同じチームになった顔見知りのSIさんに、
「一走で、いい?」
と、聞かれた。
皆、一走は嫌う。
でも、ぼくには余り関係がない。
はい、と答えた。

同じ一走に、宮古島で一緒だったryuさんがいた。
5キロのベストは、18分台の前半だと言う。
確かに速いが、ベストタイムを比べるだけなら、
ぼくの方が、少し速い。

何とか降らなかった雨が、スタート直前に降り始めた。
出走者は、どれくらいだろう。
何百人いるのか?千人以上?
前の方に並んでいたので、全体の人数は把握出来ない。
号砲と同時に後ろから、
後ろから、押し出される様にスタートする。

走り初めて最初に感じたことは、
『身体が重い』
と、いうこと。
スピードに乗れないままに、
ryuさんが、飛び出すのを見送る。
彼は、しっかり走りこんだ良い走りだ。
どんどん、離される。

怪我を治すことが、第一。
走るのは、そこそこで・・
付き合いで、着ているのだから・・。
駄目だ〜。
いくら、自分に言い訳をしても、
自分の前を走っている人間がいるのは、悔しい。

スィッチが、入る。
必死で、走った。
一キロを通過。3分40秒・・。
こんなハイペースで走るのは、何年ぶりだろう。
雨が激しくなる。
水溜りを避けながら、ばしゃばしゃ走った。
基地内は、線路が走っていたり、コーナーが多かったり・・。
普通のロードレースと比較すると、やり辛い所もある。
但し、アップダウンは、全くと言って良いほどない。

ペースが速いので、呼吸が苦しい。
前を走る人間に必死で付いてゆく。
それでも、2キロ・3キロと少しずつLAPは落ちてゆく。

4キロを通過。14分を回っていた。
何とか、18分台で・・。
余裕も何もない。自分の隣を誰が走っているのか、
とか全然分からない。
とにかく、必死で前を向いて走る。

で、いよいよ中継点に戻ってきた。
19分には、なってない。
しかし・・。
襷を渡す2走が、何処にいるのか分からない。
以前は、横一線の中継点で襷リレーしていたのが、
参加者が増えすぎた為か、
今回はコーナーにゼッケン番号を振ったプラカードが置いてあり、
次走は、ゼッケン番号の後ろで待つことになっていた様だ。
全然、知らないよ・・。
コーナーの一番端迄、行ってしまい、戻ってくる。
おっ、いた。
2走の女の子は、傘を差して、談笑している。
ぼくが、襷を差し出すと、今日の朝、初対面だったこともあり、
一瞬、濡れ鼠になったぼくが、誰だか分からなかったらしく、
彼女は戸惑っていた。
「あっ。」
一呼吸置いて、自分の仕事を思い出したらしい彼女が、
ぼくから、襷を受けて出て行く。
ぼくが、時計を止めたのは、19分30秒だ。
「遅かったな。」
ryuさんが、言った。
さぞかし、張り合いがなかったろう、と思う。
すみません、ぼくも残念でした。

ぼくは、自分の仕事を終え、着替えに行った。
雨が、半端ない。
濡れた身体を乾かした後、観戦に行く。
既に3走が、走っている。
グループ内の6チームの中では、現在4位だ、と言う。
そうだ。駅伝だったなあ。
ぼくは、ryuさんに40秒遅れで、襷リレー2位だった。

3走は、一つ順位を上げて帰ってきた。
そして、アンカーが又一つ。
結局、2位でゴール。
因みに、2走は35分。3走は25分。アンカーは21分で走った。
ryuさんのチームは、3位。
駅伝は、チームプレーだ。

雨は、横田基地を後にする頃には、殆ど止んでいた。
紫陽花に、残る水滴がきれいな6月の一日だった。
これは、休憩ステージみたいなものか。

渡良瀬・アイアンマンコリアと、
これからが、ぼくの夏本番だ。


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2007年05月08日

宮古島トライアスロン 2007

2007 miyako-goal1.JPG

2007年4月22日 18時50分過ぎ・・。
ぼくは、宮古島市総合競技場のゴールテープを切った。
ぼくのゴールは400番台で、
ランでも100位順位を上げたことになった。
日没には、未だ30分近くの時間があり、空は未だ明るかった。
ぼくは、フィニッシャータオルを肩にかけてもらい、
花輪を頭に被ると覚束ない足取りで、
観衆の輪から外れ、芝生の上に座り込んだ。
辛かった。本当に厳しいレースだった。
それだけに、ぼくは心の底からの充実感に満たされていた。
芝生に寝転ぶと、空にようやく夜の気配が忍びよってきていた。
その空が、どんどん夜に向っていくのを、
ぼくは飽かずに眺めていた。
  
            *

4月20日

10時20分発、那覇行きの飛行機でぼくは、東京を後にした。
昨年同様に高校教師のNORIさんが、同行である。
彼は昨日も仕事で、徹夜で準備して、
この飛行機に乗り込んできた。
随分、疲れた様子だった。
対照的にぼくは、昨晩は5時間近く寝ており、
出発前夜にこんなに眠ったことは、
過去の大会で一度もなかった。
何時も、ギリギリで今回のNORIさんと同様に殆ど徹夜で
準備して出てくるのが常だった。

滑り出しが良い、と言うのでもない。
ぼくの右足は、2月半前の青梅マラソンで
完全にいかれてしまい、未だ完治してなかった。
ラントレーニングは、
青梅マラソンの終わった2月4日以降、
2月以上も行ってはおらず、
大会の2週前に合計で60キロくらい、
申し訳程度(それでも痛みに耐えて)に走っただけ、だった。
バイクの練習にしても、同様だ。
足甲をタイトに締め付けるサイクリングシューズを
履くことが出来ず、練習に入ったのは、3月後半から。
踏んだり蹴ったり、の状態での宮古島入りだったのだ。

那覇空港で1時間程、乗り継ぎ待ちした後、
宮古島に到着したのは午後3時過ぎだった、と思う。
ホテルに荷物を下ろした後、5時からの説明会は参加せず、
6時30分からのカーボパーティに間に合うように、
ゆっくりホテルを出た。
トライアスロンの選手は、荷物が多い。
種目別にアイテムを整理したり、
5日間の衣服を衣装ケースにしまったりするのに、
小1時間かかった。
この間、noriさんは何と、泳ぎに行ってしまった。
驚いたが、部屋にいると寝てしまい、夜眠れないかも・・。
と思ったかららしい。
大会は明後日だ。睡眠の管理は、重要だ。

ぼくらが、パーティ会場である総合体育館に到着したのは、
開会の30分位前だった。
選手登録を済ませた後は、
会場前に出展しているブースを覗いて、時間を潰した。

カーボパーティのゲストは、2年続いたD-51ではなく、
お隣の石垣島出身のバブルガムだった。
彼女達のライブも昨年に負けない位の盛り上がりだったが、
正面でその光景を眺めるぼくの心中には、
レースに対する不安が消えず、
一人だけ、何処かに取り残されている気がしていた。

この日は、ホテルに帰ると早々に床に就いた。
午後10時前だった、と思う。
但し、横になれば直ぐに眠れると思ったが、
暫く目が冴えて、眠れなかった。
何時になく、緊張していた。

4月21日

レース前日になる。
午前6時30分に目が覚めた。
昨夜、徹夜と言っていたnoriさんは眠りが深く、
少し羨ましい。
目覚ましが何度鳴っても、中々起きなかった。

宿泊は例年通り、ブリーズベイマリーナである。
上野ドイツ村にあるリゾートホテルで、
毎年、判を付いた様にここに泊まっている。
ベランダから見える青い海。
扉を開くと、広がる砂糖黍畑。
見慣れたこの風景に心は、安らぐ。

朝食は、朝7時過ぎだった。
普段、未だ眠っている時間だが、
明日は4時に朝食だ。
早め早めの食事を心がけた。
前日なので、食事の量は多めだ。
今年のぼく達は、きちんとしている。
ぼくの中では、緊張の糸がピーンと張っていた。

朝食後にバイクを組み立て、ホテルの前を試走する。
この日の宮古島は、風があった。
右に砂糖黍畑を見ながら風に向って走ると、
37〜38キロで限界が来たが、
復路、海を右手にホテルに戻る時は、50キロを楽に越えていた。
体調は悪くない。しかし、練習不足から来る不安は消えない。

12時前に昼食を取り、午後はバイク預託の為に
スイムスタート地点である与那覇前浜に行った。
ここは、東急リゾートのプライベートビーチだが、
透明度の高い海が美しい。
この日は晴天だったが、レース当日は雨予報だった。
バイクの駆動部分に多めに油を塗り、天候の変化に備える。
念のため、サイクルコンピューターも外した。

その後、前浜ビーチで泳いだ。
8ヶ月振りに海で泳ぐ。
水は冷たいが、海の美しさは相変わらずだ。
50mプールの様な透明度だ。
海水浴客の為のブイの外側を円を
描くようにグルリと、回った。
激しくバタ足をすると、
怪我をしている足には鈍い痛みが出た。
レースは明日だ。
大丈夫なのか・・・、憂鬱になった。

夜は、ホテル内でバイキングを食べた。
ここの飯は、毎年旨くて、ついつい食べ過ぎてしまう。
レースの準備は、昼前に全て済ませており、
食事の後は風呂に入ると、早々に床に就いた。
今回のレースでは非常に手際が良く、準備が進められている。
体調面の不安を、少しでも和らげたいという
気持ちの現れだった。

ベッドに寝転がると、少し漫画を読んだ。
前回のアイアンマンコリアは、ランスアームストロングの
「ただマイヨジョーヌの為でなく」を大会期間中に読破したが、
今回は、「奈緒子」(文庫版)の15・16巻を持参してきた。
この部分は、高校駅伝編に当たっており、
長い物語中の白眉だ。
気持ちが次第に盛り上がる中、
胃薬を飲んで午後9時前には、電気を消した。
目は爛々として、中々眠れない。
永遠に寝れないのではないか
と、心配している内に眠りに落ちた。

4月22日

大会当日の朝・・。
午前4時過ぎに起床する。
熟睡して、寝汗をかなりかいていた。

朝食は、昨朝も早めに食べていたので、
抵抗なく、腹に入った。

午前6時のバスに乗り、ぼく達は東急リゾートに向かう。

          *

空はどんよりと曇っていたが、結局一滴の雨も降らなかった。
天気予報では、雨だと言っていたが、
何故か、雨は降らないと、心の何処かで思っていた。

最終登録を済ませ、ランとプレスイムの
トラッジションバッグをサポーターに預け、
バイクの最終チェックをする。

バイクセッテイング時にサイクルコンピューターを
ホテルに忘れてきたことに気付く。
メカニックのOMさんに相談したところ、
「毎年来ているんだから、いらないだろ。」
と、のこと。
まあ、何だかんだで、ここをバイクで走るのは6回目だ。

スタート時に雨が降っていないのは何年振りだろう。
入水チェックも終わり、ぼくは砂浜でスタートを待った。
不安と緊張が入り混じる。

午前7時30分。
号砲が轟き、競技が始まった。
出場選手は、1399人。
スイムスタート時の衝撃は凄まじい。
バトルと呼ばれる混乱を避けるため、
ぼくは、砂浜からのスタートを選んだ。
怪我のことがあり、
患部が他の選手に接触するのが、
怖かった。

目の前では、魚が網の中で暴れまわっているように
水飛沫が上がっている。
ぼくは、水に入る寸前に時計を回していないことに
気付いて、ボタンを押した。
泳ぎ始めたのは、競技開始から一分以上経っていたと思う。

浜から、スタートしたのは初めてだったが、
遅れて出たからと言って、バトルを免れるものではない、
ということが良く分かった。
これだけの大人数だと、逃げ場なんかない。
普通にスタートしておけば良かった、と少し後悔する。

当たり前と言えば当たり前だが、
怪我をした患部は、後ろの選手に叩かれまくって、
到底接触無しで守りきれるものでは、なかった。
途中からは、もう気にしなくなった。
それよりも、前が詰まって泳ぎにくいこと、甚だしい。
いらいらしながら、少しでも泳ぎやすい場所を探した。

今大会から、新しいウェットスーツを使う。
以前のものは、10年近くも使っていたので、
随分くたびれていた。
新しいウェットは、驚く程身体が浮いてくれる。
今回は体調に不安があるので、大いに助かる。

もう6度目の大会だが、透明度の高い海は、
ぼくが出た他の大会と比較にならない。
アイアンマンハワイに出た人は、ハワイもきれいだ、と言う。
こんな美しい海が、他にあるのだろうか。
頭を振ると、遠くを泳いでいる選手がはっきり見えるし、
海底近くに、熱帯魚が泳いでいるのも見える。

三角形のスイムコースは、大外から回ると2辺は潮を背負うが、
最後の長い直線は、完全に潮に逆らうことになる。
この日は波も大きく、中々進めなかった。
それでも、潮を背負う序盤の2辺は未だましだ。

コーナーでは、どんなに避けても、人が集中する。
足が痛むのを耐えて、泳いだ。
2つ目のコーナーを抜ける。
そして、最後の直線だが、泳げど泳げど、
中々、東急リゾートは近づいて来ない。

ゴールが近づくと、再び選手が集中する。
力も篭るし、火花が散るようだ。
水の色が変わり、水深がどんどん浅くなる。
指先が砂に触れた瞬間、ぼくは立ち上がった。
前後でスイムアップした選手達が、大集団になって、
バイクトラジッションに向かって、走っている。

ぼくのスイムアップは、1時間7分台。
順位は後に確認した記録では、900位を超えていた。
完全に作戦ミスだ。
こんなに遅い記録でスイムをあがった事はない。
気温は低く、計測器の向うに給水所があるが、
水は取らなかった。
水分は小まめに補給するべきなのは、
分かっていたが・・。

軽くシャワーを浴びて海水を洗い流した後、
曇天ではあるが、前腕を中心に日焼け止めを塗る。
この時期の宮古島の紫外線は非常に厳しい。
曇っていても焼けるし、太陽が顔を出せば、
日焼け止めを塗っていなければ、大変なことになる。

バイクトラッジションに残っているバイクは1/3位・・。
練習不足の身体で何処まで、追い上げが出来るか?
勿論、こんな順位で終われない。
ぼくの気持ちは、昂ぶっていた。

滑り出しは、軽快だった。
東急リゾートを後にし、先行している選手を追いかけてゆく。
サイクルコンピューターがない為、速度が分からないが、
周囲の選手が少し、遅く感じる位だったので、
ぼく自身の調子は、悪くないと判断出来た。
追い風を受けている時は、身体が飛んでいる様だ。

昨年の夏のアイアンマンコリアの前に、
殆どのパーツを載せ代えて
生まれ変わったぼくの相棒に、
今回の大会では完全に乗り慣れて、ぼくは存分に使いこなせた。

バイクコース沿いの沿道は、応援の観衆で埋められている。
声援を背中に受けて、猛スピードで駆け抜けてゆく。
風は強いが、ぼくの身体は勇気で燃えている。

バイクコースは宮古島全域を網羅しており、
東平安名崎、池間大橋、来間大橋など絶景の景観が選手を迎える。
すっきりと晴れた日は、これらのポイントは本当に美しいが、
海風の最も厳しい場所でもある。
バイクコースは、宮古島に高い山がない為、
比較的フラットなスピードコースと言われているが、
風の強い日は、それほど楽なコースではない。
特に今日のぼくは、足に爆弾を抱えている上、
これまでにない練習不足だ。

最初に腹に水が溜まる様な違和感を覚えたのは、
60キロ過ぎ位だったろうか。
これが、ゴールまでの長い地獄の始まりだった。

ぼくは、2006年のアイアンコリアでこの腹に水が溜まるのが、
脱水の症状の一つであることを学んでいた。
腹に水が溜まりだしたら、
水分を補給しても脱水を解消出来ない。
処置を誤れば、水をがぶ飲みしても、
その内脱水で動けなくなる。
ちょっと、信じがたい話かもしれないが、本当だ。
ぼくは、脱水で何度も何度も辛酸を舐めている。

トライアスロンの試合を通して、
4キロ近く体重が減ることがある。
その殆どが水分・・。要するに汗だ。
汗は、水と塩で成り立っている。
塩分の補給がなければ、水分を吸収することは出来ない。

塩タブと一緒にポカリスエットを口に含んだ。
前回のアイアンマンコリアで水を口にしない作戦で、
成功しているので、今回も水を口にしない積もりだった。
何よりも、過去の失敗から、水を飲むことへの恐怖があった。
腹に溜まった様な感じは、塩タブを口に含むと消えた。
人の身体というのは、不思議だ。

しかし、一時的にその状態が解消されても、
暫くすると、腹に水が溜まる。
練習不足の為、長距離を走りぬくのに
耐えうる身体が出来ていない。
その度に塩タブを口にする。
カーボショッツを口に含むことは、出来た。
苦しいながらもパフォーマンスは維持していた。
ぼくは、先を走る選手を次々に抜いていた。

競技開始から5時間。
バイクに移ってから、もう直ぐ4時間という頃。
ぼくは、110キロ地点辺りを走っていた。
急坂の上りに併せ、向い風が吹く。
全く速度が出せず、脂汗をかく。
ダンシングをすると、足甲に痛みが走る。
でも、痛いなんて言ってられない。
本当の試練は、ランに移ってからだ。
バイクの距離が、残り少なくなるにつれ、
不安が高まる。

今回のバイクパートは、相当に辛かった。
サイクルコンピューターがない為、
ペース作りが難しい上、絶えず吹く島風・・。
ペダルを回し続けるのが、本当に嫌になりそうだった。
とにかく、動き続けることを止めて、
その辺の草原に座り込んで、じっとしていたい、
という誘惑に駆られた。
しかし、そんな精神的妄想とは別の次元で
ぼくの身体は、走り続けた。

バイクフィニッシュが近づくに連れ、
ぼくは、ランを意識して、ペースを抑えた。
それでも、前を行く選手は予想以上にへばっていて、
バイク終盤が近づいても、ぼくは順位を上げていた。

バイクフィニッシュ時点で、ぼくの順位は500番台だった。
400位も順位を上げてきたことになる。
やった、という満足感なんかなかった。
とにかく、辛いのを耐えに耐えてきた結果だった。
そして、不安が消えないまま、ランが始まった。

2007 miyako run.JPG

一歩を踏み出す。
この一歩が本当に怖かった。
走れるのか?
出来なければ、此処までの道程は全て水泡と帰す。
右足に違和感はある。でも、痛みは感じない。
42キロ持つか、どうかは別として、
すぐにどうかなる状態ではなさそうだった。

最初の5キロは様子見をしながら、
5時間以上バイクに乗っていた身体を、走れる様にしていく。
沿道から、「行ってらっしゃい」と声が掛かる。
ランコースは、一本道の往復コースだ。
4時間位後に、又、ぼくは此処を通ることになる。

走り始めて、40分位して一位の選手が対向車線に見えた。
優勝したパク・ビョンフン選手。独走だった。
2位の選手には、その後、中々会わなかった。
続々と上位の選手が対向車線に現れ始めたのは、
走り始めて1時間も経った頃だったか。
10キロの通過は58分で、
ぼくのトライアスロンのランパートのタイムとしては、
かなり早かった。
(10時間台で帰れるかも・・。)
初めて記録に対する欲が、頭を掠めた。
10時間台で戻れば、自己ベストを大きく更新出来る。

しかし、体調は、相変わらず良くなかった。
絶えず、腹に水が溜まる感じに悩まされ、
尿も出なくなっていた。
とにかく、2.5キロ毎のエイドに辿り着くことが目標だ。

10キロを過ぎた辺りで、胃がきりきりと痛む感じが出た。
エイドで水と一緒に塩タブを飲むと、その痛みが治まった。
15キロ地点は、吐き気を催してエイドに駆け込んだが、
この時も塩タブを飲むと収まった。
こうした内臓の不調の原因も全て脱水にあったのだ、
と、ぼくは痛感していた。

我慢に我慢を重ねて、
塩タブと共に水分やカーボショッツを補給する。
吐き気のある時にこんなものを口に出来るのか、と思うが、
塩タブと一緒なら、何とか体内に入る。

2007 miyako-orikaesi.JPG

21キロの折り返し点を過ぎてから間もなく、
競技開始から9時間が経過した。
2時間で、残りの21キロを走れるのか・・。
(無理だろう。)
しかし、11時間台の前半なら、行ける。
自己ベスト更新の可能性は残されていた。

何時までも曇っていてくれていれば、良いのに
復路に入って、日が差し始める。
衰弱した身体にとって、これはきつかった。
往路は向かい風で、力を余分に使わせられたが、
この蒸し暑さはなかった。
脱水が厳しくなり、両の脹脛が痙攣を始めていた。
エイドに何とか辿り着くと、
入念にアイシングする必要があった。
痛む部分をアイシングし、頭に水をぶっ掛け、
数分をかけて、次のエイド迄の2.5キロを走れる身体を作る。

細かいアップダウンが続く。
このランコースも比較的平坦と言われているが、
練習不足の身体、だ。
細かいアップダウンでも、十分なボディブローになって、
負担が蓄積される。

折り返しから1時間が経ったが、30キロの看板が出てこない。
9キロ以下の距離である。
アップダウンのあるコースとは言え、
ちゃんと走っていたつもりだったぼくは、
30キロの看板はなく、いきなり残り10キロの
距離表示になるのだろうと、胸の中で思っていた。
しかし、次に見つけた看板には『30キロ』の表示・・。
ぼくは、序々に自分のスピードが落ちてきていることを
認識せざるを得なかった。

残りは12キロ。時計は10時間を回ってしまった。
11時間台のどれだけ、早いタイムでゴール出来るか、
焦点はそこになった。

患部も勿論痛むが、足の痛みは全体に及んでいた。
特に内腿の痙攣は酷く、最後迄走れるのか、怖かった。
「ぶっ倒れるならば、ゴールした後だ。」
去年の情けなさを思い出す。
今年は、頑張れば結果を残せる。
結果を・・。結果を残すんだ。
もう、執念に近かった。

左手のストップウォッチの時間表示が、
11時間を越える。
ぼくは、残り4キロ地点を少し過ぎた辺りのエイドにいた。
強い吐き気に悩まされる。
バックポケットに入れておいた塩タブの袋を振ると、
ここで最後の2錠程が吐き出され、空になった。
次に吐き気が襲ってきたら、止められない。

エアーサロンパスを足全体に吹きかけてくれている
サポーターの女子高生が、
「もう少し頑張れ!」
と声を掛けてくれる。
少し、ぼーっとする意識の底で、
ぼくは、随分昔のことを思い出していた。
その頃、ぼくは高校生で・・。
今と同じように、声をかけられて・・。
不意に意識がはっきりする。
ぼくは、拳を突き上げてそれに答えた。
(心配するな。俺は負けん。)

残り3キロ。
全身のあらゆる筋肉が疲労し、
内臓はとっくに限界をこえていたが、
終盤に入って、不思議なことに
ぐっと動きが良くなっているのが、
自分ではっきり分かった。
力の限り走る。
前を行く選手を次々に抜いた。

市街地に入ると、沿道での応援が物凄い。
ぼくには、それに声を出して答える力がもうないが、
その応援が力になっているのは、間違いない。
知らず知らず、涙が溢れる。
最後迄、走れるのか不安で不安で仕方なく、
何週間も前から、悩んでいた。
だが、今、ぼくはゴールに向って走っている。

残りの距離が2キロ・1キロと少なくなる。
日は未だ高い。
(燃えて。燃えて。燃え尽きる・・。)
限界の肉体に最後の気力の炎が燃えている。
周りの選手も、皆最後の気力を振り絞っている。
一人を抜いて、又一人を抜くのがしんどい。

そして、戻ってきた。
宮古島市総合競技場に戻ってきた。
競技場は、大観衆に埋め尽くされている。
「ウオー、ウオーッ。」
響く声援。
暮れ行く夕刻の太陽の下、
煌々と無数のライトが光っている。
「ありがとう!」
手を上げてそれに答える。

ゴール前のスプリント。
ゴール手前で、最後に一つ順位を上げる。
拳を天に突き、胸でゴールテープを切った。

2007 miyako goal-2.JPG

         *

芝生に寝転んで、見上げる空に夜の黒が、
墨汁を零した様に広がってゆく。
全身が疲労困憊し、一人では立つことも出来なかった。
長かったぼくの一日は、もう直ぐ終わろうとしていた。
しかし、大会の制限時間までは、未だ3時間近くある。
これから、宮古島の夜は、
ますます加熱しながら、更けてゆくのである。

2007-miyako-goal.jpg

4月23日

大会翌日だが、ぼくは余り熟睡出来ず、
早めに目が覚めた。
これまでのどの大会よりも、
ぼくの肉体は追い詰められていた。
身体の節々が痛い。

DSCF0006(1).JPG

思えば、あの少ない練習量で良く完走出来たものだ。
今回の大会でも、ポイントは塩分の補給だった、と思う。
練習不足の身体でギリギリまでの力を搾り出せたのは、
限界の手前で、脱水を防げたからだ。

来島以来最も、遅い朝食の後、
ぼくとnoriさんは、レンタカーを借り、
バイクのピックアップをした。
noriさんは途中で、体調を崩し、
制限時間一杯のゴールだった。
お互い、疲労仕切っていた。

ホテルに戻り、バイクの梱包に掛かる。
155キロを走りきって、汚れたバイクをしっかり洗った後、
ばらして、ダンボールに積めた。
明日の朝、東京に送る。

昼飯は、抜いてアワードパーティに参加した。
昨年は、この場所にいるのが、居た堪れなかったが、
今年は胸を張って、パーティを楽しんだ。
大会の締めで、毎年恒例の古代真琴さんのミニライブがあった。
この人の歌を聴くと、
来年も又、宮古島に来たいなあと、思う。

2007-miyako-aw.jpg


大会会場を出ると、もうトライアスロンのことは忘れた。
残り一日半・・。宮古島を十分に楽しもう!

お互いの知り合いを通じて知り合ったsimさんを加え、
ぼく達はその夜、
ドイツ村のビアファスで毎年恒例になりつつある
打ち上げをささやかに行った。
大会当日の夜は、グロッキーで殆ど飯は喉を通らない。
ここの飯は、本当に旨い。
ぼくは、ウェイトレスの女の子に
大会会場で買った写真を見せたりして、
上機嫌だった。本当に幸せだった。

4月23日

この日は、雨の予報だったが、見事に外れてくれた。
神様の気まぐれに感謝だ。
ホテルを11時にチェックアウトし、
noriさん、simさんと一緒に東平安崎の灯台迄、行った。
大会コースになっているが、レースの緊張から解き放たれ、
楽しむ景観は、レース中に目の中に入ってくる景色とは、
全く違う美しさだった。
海が信じられない程に美しい。
何処までも、透明なブルーがぼく達の前に広がっている。

DSCF0027(1).JPG

昼飯は、2年連続で見つけられなかった丸吉食堂へ。
地元で宮古そばの美味しい店を訊ねると、
必ず紹介されたのが、ここだ。
いやあ、旨かった。
東京に戻ると、このそばを食べられないのが残念だ。

そして、新城海岸へ・・。
昨年、一昨年と訪れた吉野海岸が
少し観光地化されてきたのを嘆いていると、
東平安崎でアクセサリーを売っていた
老夫婦が、「新城が良い」と、薦めてくれたのだ。

DSCF0038.JPG

目の前に美しい海が広がっている。
海に飛び込むと、色鮮やかな熱帯魚が泳ぎ回っている。
時間を忘れて、ぼくは海の中で過ごした。
しかし、疲れた。
大会の疲れが色濃く残っている。
ぼくは、砂浜に横になった。
noriさんとsimさんは、随分沖迄、出ている。
二人とも水泳出身で、泳ぎは見事なものだ。
後で、沖にはイソギンチャクもいて、
クマノミが群れて泳いでいた、という話を聞いた。
新城海岸を後にした後、
暫くドライブをしたが、ぼくは殆ど寝ていた。
本当に大会の後、こんなに疲れているのは、
初めてだった。

DSCF0021.JPG

宮古島を後にしたのは、午後7時50分位だった、と思う。
ぼく達の乗った飛行機は、雨の降る東京を目指した。

帰りの飛行機の中でも、ぼくは眠り続けた。
ようやく、大会の緊張から解き放たれたのだ。
結果は、やってみないと分からない。
どんな不利な状況でも、ぼくは決して逃げたりするものか。
心ゆくまで戦った満足が、ぼくを心地良い睡眠に誘ってくれた。






















posted by まき88ま at 23:59| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

三寒四温

寒暖差が大きな毎日が続く。
肌刺す風は未だ冷たくとも季節は一歩一歩、春に向かっている。

今週の日曜日のこと、実家から二度も着信があり、
架けなおしたところ、珍しく父からだった。
ぼくの父は、一昨年に定年を向かえたが、
会社勤めをしていた時分の部下の娘さんが、
芸大に行っていて、個展を初めてやるので行って来い、と言う。
本人もぼくも、全く絵心等ないのだが、
人付き合いを大切にする父らしい頼みだった。

彼女の個展は3/3迄とだが、ぼくは月曜日は忙しく、
火曜日に銀座迄、出向いた。
今治から、彼女のお母さんが手伝いに来ており、
ぼくが身分を開かすと、歓迎してくれた。
若い画家達が、個展を開いている小さな画廊の三方の壁に
数点の絵画が架けてあり、素人目に見ても「上手いなあ」と思うのだが、下手な感想を言うのが怖くて、世間話ばかりしていた。
「冷やかし」みたいになってしまい、とにかく記帳して出てきた。

昨晩になって母親から向うの奥様から、
お礼があったと報せてきた。
「うん、うん」と愛想のない相槌を打っていたのは、
自分に似げないことをして、
少し恥ずかしかったのかもしれない。
ただ、最近は人との付き合いを大切にしてきた父の生き方が、
分かるようになってきた。
           *
今日は、3月1日。
暦の上では、春が来た。
それは、ぼくにとって戦いの季節の幕開けでもある。
posted by まき88ま at 12:57| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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